なんでもないこと、むしろほめたつもりなことが、ひっかかりになって、そえんがけっていてきになる。
しかし、ひっかかるということは、もう、かんじょうでNOになっているから、そえんになったほうがいいとおもう。
おもっていることは、出せ。
なんでもないこと、むしろほめたつもりなことが、ひっかかりになって、そえんがけっていてきになる。
しかし、ひっかかるということは、もう、かんじょうでNOになっているから、そえんになったほうがいいとおもう。
おもっていることは、出せ。
わたしが、この方は凄いね。とおもう冒険家さんのこと。20年の活動の軌跡を、全部見せるみたいな展覧会がありました。
この冒険家というのは、会いたい人のところへ行き、行ってみたい場所に行き、メモで書き残すことも、写真も、集める本も、すべてが、その人をむだなく形成してゆくようで、彼のチョイスすることのすべてが圧倒的。知力においてかもしれないし。
知力も、経験も欲望も、向きというのがあり、進むだけ進むのだな。
わたしの20才の頃というと、まごつきとか、付き合いのもつれとか。ままになっていたことが、なにかあったか。いまも、まごついている。もつれている。インナー世界を彷徨うことも、旅。人には、性質のちがいがあるということ。
おトモダチかもしれない、タマカイさんのこと。
1月に水族館に行って、よかった~。たっぷり語らいましたでしょ。
タマカイさんは、いつも悠々としてらっしゃいます。ご自分のことを、魚だっておもってらっしゃるか、わたしのことも、魚のようななにかとおもってらっしゃるか、わたしからは、親しいきもち。
ぐぐっと近寄ってらっしゃます。
横の姿も、いさましいですわ。
さようですか。
うん。またね。
いっつも、かっこいいところに通っているきがする☆
イベントのバイトで通うところ。
宝石のイベント。ヨーロッパの服やバッグを売るイベント。
赤目四十八滝。
土地のひびきから?!めったには行けないものとおもっていた。山のことでベテランにならないと、きっと辿りつかないというイメージ。
そしてそれは、おもいちがい。近鉄大阪線の、赤目口という駅から、歩いていれば着いたのでした。
お正月、路線観光バスもまだ運休してる日。朝も凍るころに、滝の入り口にとうたつ。今日ここを歩くなんて、物数奇だね。ぞくぞくする。初めて来たのが、今日でよかった。俗世ばなれしたようす。人が近寄らせてもらえるけど、木の精と水の精と、大きな龍が体をよこたえて棲んでらっしゃる?という気配だった。
万全に着込んだ。旅先の着替えの毛糸ワンピースも長ズボンも、ありったけをぜんぶ着た。ポケットにカイロを入れた。マイナス3度。体がぽかぽかで、顔に氷そのままなキリリとした空気があたる。これがまた、きもちいい。
歩け歩け。
太陽がのぼりはじめた。角度をかえて、岩壁に光がさす。光は、木立の幹だけを射る。刻々と表情がかわる。道は曲がる。よじのぼるところもあった。歩いて進む道は、川の岸辺である。まるで独立したながれかたをする滝が、次々と姿を現した。
明治の中ごろまでは、この先が原生林だったため、滝参りとは、この滝をおまいりすることでした。
「仏」の名前がついていることが多いようです。
滝のことを、「お姿」というのは、こういうことかとおもいました。滝と対面をいたしましたとき、泣いた。なんかすごくて。
フォトジェニックな滝。このとき抜群な光がふりそそぐ。ここまできたら、最後まで歩きたい。
琵琶滝がGOALだよね?あれれれ、もういっこある~
というわけで、行きそびれた滝が、あったみたい。また来なくちゃ。
朝日がのぼるのを正面からおがむためにここに来たのに、
厚い雲。雨までふりだした。それで、立ち直れない。
予定のなかった生駒山登山をする。見事、登頂!
厚い雲におおわれている空の、どこかピンク色だったりするところ、この淡さが、良くて。西の国は、またちょっと、雲のかんじがちがう。真冬の、ひとけのなさ。今日の空なら見渡したぞ、という達成感があった。
ふもとの聖天さんへも寄って、うだうだとすごす。まさか長居するつもりはなかった。
もうお土産用6個パックしかないところを、そのパックをこわしてまで、供してくれた、草餅。おいしゅうございました。お茶もたっぷりお飲みなさい。旅から帰ってからですが、この急須とそっくりなのを雑貨屋さんでみかけて、思わず購入しましたっと。このあたたかな時間が、よみがえるようにおもえて。
旅は、「計画通りかどおか」でまわることではないから、心に残ったのは、なんでもない時間のほうかもしれない。ここぞ、という場所は、もちろんとてもよかったけど。
旅行が楽しいこと☆
お正月に、西へ、旅しました。
日の出が美しいといわれているお宿に泊まりまして、夜は明けた。
待てども待てども、朝日が昇らなかった。
これもまた旅。
つづく。
自分の生まれてきた使命と役割のはなし。
くり返されるパタンがありますか。これは、向き合わなくてはいけないなにか、つまり使命と役割のヒントだとおもいます。
苦しみのパタンに見えていたものが、じつはそこに、よろこびのメッセージがあったりします。
天は、何を知らせてくれているのでしょうか。
パタンの根っこは、生い立ちにあります。自分にはどんな暗示がかかっているか。自分のクセになっていることがなにか。パタンをときほぐすことで、より本性に合う生き方ができるようになるのかも。
私に、あらわれたパタンが、何の合図だったか。
健やかさこそすべて。