TORABARA☆はこね

雨降りの中の旅が、よかった。

2日め。空が明るくなってきました。

かんかん照りにもなりまして。

そののちに、濃い霧です!

霧のたちこめるなかを、バスですすみます。強羅のあたり。

8月から、わたしはお店を始めますので、決起集会をしたのでした。

銀かつ屋「田むら」へ行き、お土産「月のうさぎ」を買って、帰りましたとさ。

TORABARA☆ゆがわら

梅雨の旅というのも、乙でした。どうせ雨でぬれるので、裸足につっかけ風な靴で、でかけました。ちょっとあたたかめな服にして、雨でぬれたら都度タオルで拭く。しとしと、ふりつづけました。

城願寺にて。900年生きている柏慎さん。

バスで不動滝に行くつもりがのりすごしました。のりすごすことで、辿りつけた、より深い緑が生い茂っているところ。

奥湯河原温泉口のあたり。

湯河原へ泊まりますのは、初めてでした。川のせせらぎの音が、聞こえつづけていまして、いい土地です。空気が、生まれつづけていました。

みどりの素晴らしさ。

水の音といいますのは、いいものです。

河原から1分入ってください。不動滝があります。
だるま滝。こちらは国道沿いの河原から眺められます。

おいしーい夕食をいただきまして、温泉にはいりまして、眠りました。

TORABARA☆とら

わたしが、はじめてそのお寺をたずねたのは、8年くらい前になる。

お寺なのだけど、祈願をしてくださることで檀家さんがいらっしゃる。寺といいますと、墓があったりして、妖怪がいたりして、ぶっそうなかんじとおもっていましたが、祈願寺といいますのは、幻想的です。夜に燈籠だけ灯っている風情など、とてもとてもよいのです。

そして、願い事が叶う。秘儀といわれている朝のお祈りがあり、ご縁を結ばせていただいた。ご縁を結ぶというのは、朝5時に、拝む場所に座ってましたってこと。

この木はこのお寺さんの木じゃありません。

そののち、宝がわたしに投げ込まれたみたいに、開運した。

1年目に、住んでいた家(湿気た古くてボロいアパートの1F)から、出ることになった。そして、こんな気持ちのいい家があるのか、というところにおひっこし。新しい家は、鳥のさえずりがきこえる、木々をみわたせる、陽当たりのよい、お寺さんの食堂と居心地がそっくりなのだ。

2年目。わたしはおしごとにはぐれていたのだけど、ここで祈願させていただいた数日後、とんとん話がまとまって、とびきり憧れの職場に通うことになった。

欲が出てきてしまう。くれくれ。それで、ただただ、かんしゃすることにしなくちゃとおもった。くれくれ、になった年は、なにもおこらなかった。

わたしは、生かされているのだということ。苦労したこととの取引で、なにかよいことがおこるというのではない。いきものとは、ネアカな存在なのかもよ、とおもう。

TORABARA☆ビー玉の目のおじさん

いっときまよいこんだおへんろみち

コブラに咬まれて、これが毒になるってことは、咬まれた「人」のほうに、これを毒だとする器があるってことらしい。コブラの毒が毒ではない、虫や動物はいるらしい。

同じことが人間関係にもあって、嫌いとおもうやつは、こちらにそれを嫌いだとする器があるってことらしい。なんか、ここは、解せない。

理屈だけでできたおじさんがいて、神さまの領域に手を出し始めた。神さまのことが、理屈によってわからないから、という判断の根拠で、あるお作法を、消滅させてしまった。その頃会社で、「無駄な作業を省く」ことが推奨されていて、どの動作を省いたか、項目を、エクセルシートに書き出すことになった。この数が多ければ、良い。

神さまにまつわるところのお作法は、この「省くべき無駄な動作」でしかなく、おじさんにとってはエクセルの1行が埋められることを見つけた!でしかなく、神さまのことはわからないから、書いていいとおもった、であり、エクセルの行を埋めれば埋めるほど会社にとっての「良いこと」とされる。ひいてはおじさんの点数がかせげる。というあたまだったらしいです。

神さまは、どうしてわたしにこの状況を与えてくださったか、ここにいくつもある問題、すなわち「不自然さ」が、わたしに気付ける。気付いたのだからあらわしなさい。

会社というのは組織であり、指令系統があり、ここに従うことを、仕事への従事と言っている。わたしの言い出し方によっては、私は、ここの指令に「反している」とだけされてしまう。また、おじさんがごじぶんにきている指令を、妨害された、と言いかねない。わたしはここで、何を伝えたらいいか。長い時間、おじさんに質問をつづけた。そして、質問で止めた。

私が、ひとさまになにか、言って聞かせる立場にはない。しかしこの場面は、「わたしが弱い立場である」ことを確かめる場面ではない。答を押し付けることであってはならない。それで、質問、というかたちをとりつづける。

いま、ひとびとのあたまがどうなっているか。どういう構造があるか。そのおじさんのようなマインドコントロール直下にだけいる状態は、わたしからの眺めだと、マヒとしか呼べない。でもね、このじょうきょうは、いったいどう扱ったらよいか。

会社が、生かされていることを忘れ、我欲になってゆく、いよいよ我欲になってゆくすがただったか。あの会社は衰退してゆくだろうな。という予感の通りで、かつては帝国だったところなのに、沈んだ。人造人間ばかりを会社に入れてしまったのだ。おじさんよ、よく聞けよ、おまえがプラスチックなんだぞ。

わたしは、じぶんの力が及ばず、無念だった。生の榊が、プラスチックに取替えられた。

こんなことがあって、他にもこういうようなことがあって、わたしは、アレルギーだらけになって、この会社を去った。わたしの役割は、きっと生の榊を保つことだった。それで、この会社の神さまに、側に寄せていただいていたのに、わたしが役に立たないから、おまえ、もういいよってことか。あるいは、わたしは、ビー玉の目を指さして、ビー玉だろ、と問えたから、もうお役目を果たしたのかな。

自らのおこないで、こころを実現しているしかない。

自らのおこないで、こころを実現しているしかない。

TORABARA☆神社の宮司さんのご本

美しい国。

本の中にでてきたお話。

昔の神道を古文書で読むと、なんだかわからない所作が記されているらしい。これが、何の意味があるのか、なにかのためなのか、まるでわからないこと。順番があって、とにかく、そのとおりに、なんびゃくねんかぶりで、20年に一度の式年造替を、この古文書にのっとってとりおこなったということでした。そうしたら、神さまの世界がたちあらわれた。

この世界がどういうふうだったかを、見たことがないことを形容できない、ただただ、すごい。だったらしい。あたたかい、あかるい、ひかり、かしら。「あられる」だったのじゃないかしら。

かつては、理屈ではなくて、直観で、見えないことも「ある」「あられる」ことを知っていたのだとおもう。日本といいますのは、こころある国。そして今も、美しいはずな国です。旅で、神社とか古い土地を廻らせていただくけれど、いろいろなくなったといわれているけれど、「あられる」のだ。

本当のことばかり書かれている本。本当なこととは、自然のことで、本当ではないことは、不自然。とわたしはかんじました。

「神道」のこころ 葉室頼昭著

TORABARA☆8月のこと☆

とうめんのくいぷちに、ありつかなければ。わたしは、ひとりみであるし、やしなっていただいてるわけではない。わたしは、いつまでたっても、くいっぷちにありつけるかどおかのレースをしている。

8月。空いていませんかって話がきましたー。はいっ。ちょうど空きますのよ!!

なにかしらのかいだんを上がることが、わたしに欠けている。おかまいなしで、もっと、ささやかなところを充たそうとおもっている。朝、自分のためだけに5時に起きる。育てているお花の様子がよいかどおか。鳥ちゃんは鳴いていたかな。

ひとは、20才のころがよかったとかいうけど、わたしにとってそのころは、まるでこころにパワーが湧かなくて、いまふりかえると、びょうにんだったな。外付けでいわれているところの価値が高い項目、を全てけちらした。

タマシイが学びたがっていることがあって、ひつようなたいけんをしているらしい。りくつをてばなすしかなくなるという学び。

生い茂りました。

問うこと。「不自然」なのか「自然」なのか。

この景色を美しいとおもうあなたが、美しい。

TORABARA☆旅のこと

美しい道

呼ばれていたね~という旅のことを思い出していた。

その日は、いっしょに行くことになっていたひととはぐれて、しかしそのひとはそんなに行きたがっていなかった。わたしひとりで行った。山に。

わたしは目が悪くて、メガネを忘れていることに気がついたけど、かまわない、という気がした。とにかく、行く。

ケーブルカーが工事しているとかで、人はまばら。山にしがみつくように、かいだんにもへばりつくように、登りまして、参拝いたしまして、下りてきた。山が、おつかまりなさいといっているように、ほいほいとわたしをはこんでいるように感じた。体が丸ごと浄化されたようなたいけんだった。その山道で、野生の鹿もいて、その日は、そういう日。

見えるかどおかに不自由しなかった。触覚もつかって、山といったいになって、登った。素手で、ふいにさわったコケが、やさしくてやわらかくて、鮮烈に、コケの生命とふれた、と思った。

こどものころのからだかんかくが、よみがえっていた。のびやかにあそぶようにからだをつかっていたよね。

山は、わたしを招いて、ヒントをくださったのかも。ありがたい。