TORABARA☆けっきかいのこと

けっきかいというのが、わたしがTORABARAを始めることを、先月も今月も、けついする会★といって、東京近郊にあそびに行くのであった。

既成服発祥の地。

雨の中、北鎌倉に行きまして、源氏山へ向かいまして、まさかのガチの山道で、ぬかるみでした~。源氏山に登りました記念で、お写真。

なんとか、到着いたしましたっ

商売を始めることを、錢洗い弁天さまにごあいさついたしました。小銭もお札も、持っているすべてを洗いまして、これをすぐに使うと、運気がUPするようです。

鎌倉駅そばで、じゃんじゃんお菓子を買ったのでした〜

TORABARA☆けっきかい

横浜と鎌倉に行きまして、けっきかいをいたしました。

横浜の夜ごはんを、クーポンの使える店からえらびましたので、地図を片手に、横浜中華街の練り歩きというのをしまして、これが楽しかった。そして飛び込みで、入店いたしましたの。

おおおおっ★

道路にて、777ナンバーのバスを見つけて、おおっとおもったのだけど、

8888ナンバーの乗用車がちょうど停まっていたお店に入りました。(写真はなし。)

わたし、ゆっくりしているのだろうかしら。

夜のうっとりな横浜中華街★

TORABARA☆自力他力

鬱蒼と生い茂る。

神道の本をずっと読んでいるけど、我で引っぱろうとすると、天からのごかごがなくなってしまう、と書かれている。

わたしが、肌でかんじてきたことがあって、むしろ自分を全体的に使ってすごせているか、わたしは問うてきた。これが自力とか我、と呼ばれてしまうか。他人行儀でいるしかない場所や人というのは、わたしにとっては、「ダメ。」なことの合図なのだ。

教則本のような、道徳の体系があって、自分のエネルギーと合う合わない、がある。この本は、昭和2年生まれの方が著者で、昭和2年の道徳観が、古いってはなしかもしれない。

生い茂る木々よ。

たとえば、田舎には田舎の流儀がある。ここと合わないことを嗅ぎ分けて、自分のエネルギーを生かせるところに、進む、というのが、自己の責任だと、わたしは考える。これって、我で突き進むと呼ばれてしまうか。

自分と向き合うと、自分のからだの声が聞こえるようになる。今、どんなものが食べたいか。というのも、自分のからだが知っている。これが、ままならない事態。田舎だと、たとえば白菜を一束いただいたりして、ハンバーグが食べたくても、白菜を消化するしかなくなる。このように、いつも流れてくる物があって、この流れに呑まれているしかない。

だんだん、自分がのっぺらぼうになってくる。ここにいるのは、わたしではなくていい、匿名な、だれかの出来事。「我」の不在。え?これをよしとするの?ごかごをいただいている姿?

自分には自分の光があって、これを自分でかがやかせていられるようにすごすと、ごかごなのか、まもられているあんしんかん、をかんじます。わたしのイメージだけど、ご先祖さまは、ぜったいてきに、わたしがわたしを生かすことが、お好きだとおもう。これはだれかれが、だれかれを生かすってこと。

「自分で判断しなくてもいい」という状況が、楽だ、とおもうひとも多いと思うけど、これは思考が停止しているってことだ。深海に棲む魚は目が退化しているらしいけど、なにかが退化する予感がある。じっさいに、わたしのからだの水の循環が、たとえば田舎で過ごすと、とどこおる。じかんとともに調子が悪くなるのです。自分のアンテナを他(外)にあずけては、だめ。

それで、他力なものか。といいたい。他力でいいわけがないでしょう。ということ。

TORABARA☆困ったこと

たにんにどううつるか。というジュバクから抜け出すのは、かんたんなことではない。このジュバクから、とうとうぬけないまま、なひとも多い。たにんにどううつるか、が気になるからこそ、群れになれるとおもう。

なぜ群れつづけることができるか。まっ先に、人の欠落が見えるから、群れていられるのかも。お下品なひとって、だいたい群れてる中で中心な気がする。

太っているか。けっこんはしたか。先日と同じアクセサリーね。〇〇さんの具合が悪いらしい。食いはぐれなどの不遇。

こちらに、何を見たがっているか。あらゆる矢を防ぐため、なんにもしゃべることが無くなっちゃったわ。

害虫にわざわざ刺されに行く人もいるのか。心を重たくするために行くのか。

なにが書かれていても、いい気がしない。これが、わたしを力ませていることの正体。

計算高く、比べ合うようなことばかり。くったくない会話が、なんねんもなくなっている。もうここに、ハガキを出さないでほしい。

TORABARA☆かんきょう

かんきょうがかわって、そのかんきょうによって、ないめんのかがくはんのうまでかわった。それで、まるでちがうからだつきになった。

ぎゃっ☆

かんきょうというちからは、すごくて、ながいじかんをかけて、いやしつづけられていたのだ。じぶんに合うところにいることが、いかに大事かとおもう。

うつくしいからだ。

合わないことを耐えていると、耐えることがクセになって、耐えていることが何か、わからなくなっていたりする。わたしは、ぐうぜんのごえんで、とてもいいおつとめに通うことがあって、するするすとんと、からだから余計なところがなくなった。ほんらいのからだがたちあらわれた、というたいけんです。

水を守る馬さんのおでまし。

いかに、コリをつくってしまったか、ながすはずのろうはいぶつをながさないままだったか。なにが自分を力ませるのか、じぶんをかんさつすること。

ながれのまま。

じぶんの自然をさがすこと。

ながれるままよ。

とてもすきなところ、パリに旅した時も、そういえば日に日にからだから余計なところがなくなったっけ。からだをかえようとおもわないで、きもちが至福だと、からだはかわるとおもった。

TORABARA☆ふるすのこととか

わたしは、ふみはずしというのを、したかもしれない。こうするしかない道にみえたことが、なにもゆめがないしんろだったのです。何年かは、これがなじむかもしれない、とおもったかもしれない。なにしろじんせいは初めてだから、わたしによくわからない。

冬の季節の木です。

なにもかもそぐわない、という時期に、せっせと出かけていた「群れ」があって、無為なじかんだったかとふり返っている。わたしの、いいところが、なにも生かせていないまま、というクセを、自分につけただろうか。

この「群れ」についていこうとしていた頃のことを、シタヅミ、と呼ぶかもしれないけど、これも時代で、苦労はするもの、だなんてかんがえもあったせいで、合いもしないところから、なかなか抜け出せていなかったか。

ふみはずしをしたな、という学校のことは、やめた。

光がさしているはずな道。

やめた、ことをまちがえたとおもっていなくて、入らなくてよかったな、というまちがえ。どこにもすすむようにはなっていなくて、まちがえる、ことがたいけんするべきことだったのかも。

まちがえて、よかった。他人のルールではなくて、自分のルールですごす、という道に、力点を入れ直すきっかけになったから。

こころかろやかで、健やかにすごそう、という事始め。わたしの、はじまり。

ゆっくりとしていますね。

コーヒーとビスケット。

TORABARA☆いなかのこと

田舎に思い入れが無い。と記したところを、もうすこし記す。

雨粒とバラの花

18才くらいまで、田舎で育って、わたしは、いつまでもおさなかったため、とうきょうにきてから、つづきは、とうきょうで育ちました。

田舎では、わたしのニンシキできるいしきよりも深い知恵によって、まわりが何をしゃべっているか聞こえないように、耳をふさいでいたようなきがする。深い知恵は、わたしがどんかんであるように、能力が、わざと閉じていられるように、みちびいていた。

その家に生まれて、たいけんしなければいけないことがあると同時に、わたしの芯をまもらなければいけない。

田舎のかんきょうというのは、そこでとびかうコトバが、きちゃない。きちゃない、といいますか、すくないといいますか、ざつ。なにも大事にしていない、こころが無いような、乱れたコトバ。ノイズに近い。久しぶりに帰ってみて、ガクゼンとするのです、わたしはいったいここで、何を聞いてきたか。

田舎が、いつだったかはっきりしないのだけど、結界がこわれたな、とかんじる時があって、その時を境に、まるで帰ることに意味が無くなったとかんじるようになった。

土地の東西南北には、柱になる守り神がいらっしゃる。守り神さまが、田舎からはなれてしまわれた、とかんじた。その土地が生きることとわたしは、かつては息を合わせていたようにおもう。肌で知っていた土地だったのに。

麗しのバラ

今は、なつかしくもなくて、よそよそしい。わたしが、外に出されたのかもしれない。とにかく、もう帰る場所ではなくなっている。