けっきかいというのが、わたしがTORABARAを始めることを、先月も今月も、けついする会★といって、東京近郊にあそびに行くのであった。
雨の中、北鎌倉に行きまして、源氏山へ向かいまして、まさかのガチの山道で、ぬかるみでした~。源氏山に登りました記念で、お写真。
商売を始めることを、錢洗い弁天さまにごあいさついたしました。小銭もお札も、持っているすべてを洗いまして、これをすぐに使うと、運気がUPするようです。
鎌倉駅そばで、じゃんじゃんお菓子を買ったのでした〜
けっきかいというのが、わたしがTORABARAを始めることを、先月も今月も、けついする会★といって、東京近郊にあそびに行くのであった。
雨の中、北鎌倉に行きまして、源氏山へ向かいまして、まさかのガチの山道で、ぬかるみでした~。源氏山に登りました記念で、お写真。
商売を始めることを、錢洗い弁天さまにごあいさついたしました。小銭もお札も、持っているすべてを洗いまして、これをすぐに使うと、運気がUPするようです。
鎌倉駅そばで、じゃんじゃんお菓子を買ったのでした〜
横浜と鎌倉に行きまして、けっきかいをいたしました。
横浜の夜ごはんを、クーポンの使える店からえらびましたので、地図を片手に、横浜中華街の練り歩きというのをしまして、これが楽しかった。そして飛び込みで、入店いたしましたの。
道路にて、777ナンバーのバスを見つけて、おおっとおもったのだけど、
8888ナンバーの乗用車がちょうど停まっていたお店に入りました。(写真はなし。)
わたし、ゆっくりしているのだろうかしら。
神道の本をずっと読んでいるけど、我で引っぱろうとすると、天からのごかごがなくなってしまう、と書かれている。
わたしが、肌でかんじてきたことがあって、むしろ自分を全体的に使ってすごせているか、わたしは問うてきた。これが自力とか我、と呼ばれてしまうか。他人行儀でいるしかない場所や人というのは、わたしにとっては、「ダメ。」なことの合図なのだ。
教則本のような、道徳の体系があって、自分のエネルギーと合う合わない、がある。この本は、昭和2年生まれの方が著者で、昭和2年の道徳観が、古いってはなしかもしれない。
たとえば、田舎には田舎の流儀がある。ここと合わないことを嗅ぎ分けて、自分のエネルギーを生かせるところに、進む、というのが、自己の責任だと、わたしは考える。これって、我で突き進むと呼ばれてしまうか。
自分と向き合うと、自分のからだの声が聞こえるようになる。今、どんなものが食べたいか。というのも、自分のからだが知っている。これが、ままならない事態。田舎だと、たとえば白菜を一束いただいたりして、ハンバーグが食べたくても、白菜を消化するしかなくなる。このように、いつも流れてくる物があって、この流れに呑まれているしかない。
だんだん、自分がのっぺらぼうになってくる。ここにいるのは、わたしではなくていい、匿名な、だれかの出来事。「我」の不在。え?これをよしとするの?ごかごをいただいている姿?
自分には自分の光があって、これを自分でかがやかせていられるようにすごすと、ごかごなのか、まもられているあんしんかん、をかんじます。わたしのイメージだけど、ご先祖さまは、ぜったいてきに、わたしがわたしを生かすことが、お好きだとおもう。これはだれかれが、だれかれを生かすってこと。
「自分で判断しなくてもいい」という状況が、楽だ、とおもうひとも多いと思うけど、これは思考が停止しているってことだ。深海に棲む魚は目が退化しているらしいけど、なにかが退化する予感がある。じっさいに、わたしのからだの水の循環が、たとえば田舎で過ごすと、とどこおる。じかんとともに調子が悪くなるのです。自分のアンテナを他(外)にあずけては、だめ。
それで、他力なものか。といいたい。他力でいいわけがないでしょう。ということ。
たにんにどううつるか。というジュバクから抜け出すのは、かんたんなことではない。このジュバクから、とうとうぬけないまま、なひとも多い。たにんにどううつるか、が気になるからこそ、群れになれるとおもう。
なぜ群れつづけることができるか。まっ先に、人の欠落が見えるから、群れていられるのかも。お下品なひとって、だいたい群れてる中で中心な気がする。
太っているか。けっこんはしたか。先日と同じアクセサリーね。〇〇さんの具合が悪いらしい。食いはぐれなどの不遇。
こちらに、何を見たがっているか。あらゆる矢を防ぐため、なんにもしゃべることが無くなっちゃったわ。
害虫にわざわざ刺されに行く人もいるのか。心を重たくするために行くのか。
なにが書かれていても、いい気がしない。これが、わたしを力ませていることの正体。
計算高く、比べ合うようなことばかり。くったくない会話が、なんねんもなくなっている。もうここに、ハガキを出さないでほしい。
かんきょうがかわって、そのかんきょうによって、ないめんのかがくはんのうまでかわった。それで、まるでちがうからだつきになった。
かんきょうというちからは、すごくて、ながいじかんをかけて、いやしつづけられていたのだ。じぶんに合うところにいることが、いかに大事かとおもう。
合わないことを耐えていると、耐えることがクセになって、耐えていることが何か、わからなくなっていたりする。わたしは、ぐうぜんのごえんで、とてもいいおつとめに通うことがあって、するするすとんと、からだから余計なところがなくなった。ほんらいのからだがたちあらわれた、というたいけんです。
いかに、コリをつくってしまったか、ながすはずのろうはいぶつをながさないままだったか。なにが自分を力ませるのか、じぶんをかんさつすること。
じぶんの自然をさがすこと。
とてもすきなところ、パリに旅した時も、そういえば日に日にからだから余計なところがなくなったっけ。からだをかえようとおもわないで、きもちが至福だと、からだはかわるとおもった。
わたしは、ふみはずしというのを、したかもしれない。こうするしかない道にみえたことが、なにもゆめがないしんろだったのです。何年かは、これがなじむかもしれない、とおもったかもしれない。なにしろじんせいは初めてだから、わたしによくわからない。
なにもかもそぐわない、という時期に、せっせと出かけていた「群れ」があって、無為なじかんだったかとふり返っている。わたしの、いいところが、なにも生かせていないまま、というクセを、自分につけただろうか。
この「群れ」についていこうとしていた頃のことを、シタヅミ、と呼ぶかもしれないけど、これも時代で、苦労はするもの、だなんてかんがえもあったせいで、合いもしないところから、なかなか抜け出せていなかったか。
ふみはずしをしたな、という学校のことは、やめた。
やめた、ことをまちがえたとおもっていなくて、入らなくてよかったな、というまちがえ。どこにもすすむようにはなっていなくて、まちがえる、ことがたいけんするべきことだったのかも。
まちがえて、よかった。他人のルールではなくて、自分のルールですごす、という道に、力点を入れ直すきっかけになったから。
こころかろやかで、健やかにすごそう、という事始め。わたしの、はじまり。
ゆっくりとしていますね。
田舎に思い入れが無い。と記したところを、もうすこし記す。
18才くらいまで、田舎で育って、わたしは、いつまでもおさなかったため、とうきょうにきてから、つづきは、とうきょうで育ちました。
田舎では、わたしのニンシキできるいしきよりも深い知恵によって、まわりが何をしゃべっているか聞こえないように、耳をふさいでいたようなきがする。深い知恵は、わたしがどんかんであるように、能力が、わざと閉じていられるように、みちびいていた。
その家に生まれて、たいけんしなければいけないことがあると同時に、わたしの芯をまもらなければいけない。
田舎のかんきょうというのは、そこでとびかうコトバが、きちゃない。きちゃない、といいますか、すくないといいますか、ざつ。なにも大事にしていない、こころが無いような、乱れたコトバ。ノイズに近い。久しぶりに帰ってみて、ガクゼンとするのです、わたしはいったいここで、何を聞いてきたか。
田舎が、いつだったかはっきりしないのだけど、結界がこわれたな、とかんじる時があって、その時を境に、まるで帰ることに意味が無くなったとかんじるようになった。
土地の東西南北には、柱になる守り神がいらっしゃる。守り神さまが、田舎からはなれてしまわれた、とかんじた。その土地が生きることとわたしは、かつては息を合わせていたようにおもう。肌で知っていた土地だったのに。
今は、なつかしくもなくて、よそよそしい。わたしが、外に出されたのかもしれない。とにかく、もう帰る場所ではなくなっている。
だいじょうぶだとおもってたから、よかった。
えたいのしれないところを、つたえるというやくわりが、わたしにあったのだったりして。
ゆめまぼろしのほうにひっぱられたら、
からだは治るというしくみ。