TORABARA やよい23日

朝の公園で、ピクニックみたいに、ドリンクヨーグルトとクロワッサンをいただきまして、ノリノリになったのででかけちゃいましょ。電車に10分乗ってゆくところを、お散歩いたしました。

なんて空気おいしいの。今日は、鳥の声が大きい。神社さんの拝殿に、屋根のあるところに、両側に、種類のちがう鳥がいて、大きい声すぎて建物にこだまするくらいだった。

わたしはここを歩いているとしっくりくる。ずいぶん、歩いた。8000歩ですって。曇りの日を、ちゃんと味わいました。散歩の道は、緑の新芽の木。この時期だけ一本だけ、桜。

朝のスーパーマーケットで閃きがありました。えんがわと白いイカを薄切りで削いで、塩もみきゅうりと酢味噌で和える。春にいただく、超特級なメニューですこと。

散歩と食事がよくて、ほかになにをのぞむの。ずっとどこか感動していた!朝は5時に起きてて、朝の7時の電車に遊ぶあしとして乗るっていうところが洒落ている。

9時にシゴト開始しているところも、いかす。ふたつもみっつも朝があるみたいな日だった。

↑こちらは、昨日のお舟からの眺め。

TORABARA やよい22日

たのしいきもちが、かみあわない人のこと。やらねば、丈の行動が、ほぼその人の時間を占めているひと。たのしいから、が行動の動機になりにくいらしい。それで、話をしていて、へいそくかんがある。やらねばばかり造るひとは、けっか、うっぷんを造り、爆発する。

はめをはずす、ということとセットになって、自分自身への拘束がかなり、強い。このひとの拘束するクセがゆるまれば、羽目なんてはずさなくてよくなるのにね。

人ごとに、ご自分で業だとしていることも違うし、人生をおくるにあたっての養分の摂りかたがちがうとおもっている。わたしは、パートナーに、今の今まで、おなじようにたのしむことを、求めていなかったみたい。異種なことへの、めずらしさを、眺めて、あゆみよろうともして、ただこれ、もうおしまいにしたときに、自分じしんが、すごいきついやつだ。

合ってなかったじゃん。わたしが健やかではなくなる相性。合っていないながらもやり過ごして、流そう。としていた数々は、アレ、とかコレで分類され、積みあげられ、きっちり記憶されている。それで、許容量をこえたとたん、振り子はNOにふりきる。なぜゆるしたりしたのだ、おもいが烈しく自分を襲撃する。わたしが誤魔化した違和感は、ウソ、の箱にちゃんとしまわれているのだ。

せっかくちがう価値観をうけいれていったはずが、もとのもくあみな、只のわたし。一寸もかわることはない。

自分の正直さにもどるのか、もうちょっと、この水の流れにまかせておくか。どうでしょうね。ちょっとでも、気が晴れるほうへ。

TORABARA やよい21日

午後からお祝いの、旅。午前中は、お部屋の一掃を淡々としてゆくことで、いよいよ整った。旅行前の時間に、お部屋のいるもの、いらないもの、をより分けることで、気持ちがリセットされる。それで、おもう存分に、旅のモードになった。

お部屋のことは、隅々、見渡した。出発までに何時間かあったときの、淡々としたこの時間のことが、とても好き。

TORABARA やよい20日

着付けのお教室は、何人か先生がいらして、その中のひとりが、決まって他の先生がいらっしゃらないときに、私に近づいてきて、指をさして、シワがあるからたたみ直して。と言ってくる。3回も、たたみなおし。

小姑が嫁をいびるみたい。しかも、私の方が年上なんですけど。

このお教室は8回、無料で、ケチをつけるのは悪いけど、お借りするお着物の襟元に、茶色いシミがあり、ちょっと着るの、厭なんだよな。

3回シワを直させて、衣装の袋に仕舞わせるなら、3回結び紐をほどかせて、結び直しをさせるほうが大事だろ、と思う。結び方を覚えるでしょ?ということ。まだおぼえてないことを反復させるから意味があるんじゃないの?

そもそも、シロウトに着物をたたませて、なにがなんでも袋に仕舞ってしまうから、ちょっとした汗が残って、シミがぶわっとできたんじゃないの?

干せってば。

お着物の運用が、ちょっとここ、違うかな。いい学校ではない。あの小姑のひとも厭だし。このまま、残りのレッスンは、通うか、今、迷っている。

TORABARA やよい19日

朝のこと。ちらちら、赤い幟が目に入って、近所のお稲荷さんがお祭りだと知る。春と秋にあります。

境内はちいさいのだけど、みんなが優しい気持ちになって賑わっている。外に机が並び、鉄板焼きとかおしることか、調理しながら、販売されている。あ、おしるこは、無料ですって。ありがたい。じゃがバター100円。フランク200円。お砂糖を入れているわけではない食べ物も、なんていうかあまみがあって、ここの波動で、とっても美味しくなっているとおもう。お祭りに参加させていただき、朝の幸先がよい。今日はいい日になります。

一週間前はショッピングモールへせっかく行ったのに、あまりにもゆうじゅうふだんだったことが無念で、今日は、リベンジするとしよう。電車は、シュッと行けるやつに乗る。先週は、つっかえつっかえ、4回くらい乗り換えたっけ。

わたしにとっての天赦日があるとすれば、今日だったかも。何もかも、力強く前進する。何事も許され、物事の決着が早い。

お買い物万歳。イタリア製サンダルも、タッセル付き上品で軽ーい折りたたみ傘も、嬉しい。日除に何時も被れそうな帽子も活躍の予感。

いいお買い物をしている時って、天からの贈り物がわたしにわかるように、宙のほうから不思議なパイプを通って、ポッと目の前に置かれた。というかんじ。こんなにいいものがあるのに、周りのひとはなぜ気が付かないんだろう、わたしに買われることを、存在をひそめて待ってくれてる。いいえ、今日は、もっとせっきょくてきに物に呼ばれた。タイミングが目に見えている。とにかく、こうふんがさめやらない。

感謝です。

昨日の雨でいっそう麗しくなったアセビ。

TORABARA やよい18日

時間指定で美術館のチケットを購入していて、その時間内に間に合うのかってころ出発した。もうこれ、確実にアウト。と判り、チケットって1分でもおくれたら無効なのだっけ、という焦燥感で、囚われたまま、ネットの乗換案内の画面を睨む。無効になってしまった場合も、猛り狂わないように、自分を宥めた。無効ならば、チケットをすみやかに新たに買おうではないか。たいしたことない。と念じ、駅からは、雨の中、ほとんど走って、到着。

6分、遅れた。

会場案内の女性は、やさしかった。まるでこちらの時間がずれてしまう根本の、せんざいてき歪みまでも手当てしてくれそうなくらい、いいんですよ、ようこそ。という具合に迎えてくれました。美術が美術館がサービスがなんたるかをわかってらっしゃる。はああ。よかった。

美術観賞、たのしかったです。いい絵がたくさんある空間は、そこにいるだけで至福がある。いい絵というのは、ぐびぐび飲む、みたいな味わいかたができるものです。どの絵が一番好きだったかな、初期の頃の作品で、その画家のスタイルのハシリが顕現しましたね、という重要な一枚。かもしれないやつに釘付けになりました。

※厭世的な気分が、おそらく今のわたしにあるため、肖像画は、ハガキは、選ばなかった。

TORABARA やよい17日

ひと月の半ばをすぎて、毎日の日記を記すことが、日記という「ペルソナ」を形成していってる丈なら、早いうちに、やめろと思う。誰かが読むかもしれないことは、そこに、世間が生じるということ。

昨日、写真について考えていたことを、つづきを、考えてたけど、考えなくていいよ。が答え。

今日は今日で、難題かもしれないことが考えを覆っている。大半の時間を過ごしているところがかりそめだよな、という件。前に、なるべく無機質なしごとをすることでしか、コアな自分が守れないって述べた。くさりそうなことがあったので、むかしからふつうに、くさったようなことだらけだったじゃないかということが、走馬灯のようにおもいだされた。もしも、なじみもしないシゴトにひたろうとしてしまえば、シゴト生命をちぢめる。わたしの憧れは、なじみもしないシゴトのことがどうしても続かない、という正直さ。

だから、本当は、シゴトは長びかないはずだということ。それで、長びいているためにかりそめになるしかない。

うやむやさがつづいている。わたしがコミットしていないのは周辺の、しがらみごっこみたいな付き合い。シゴトはpcの中で執り行われています。メールにある名前、担当者の名前。実際に見たことがあるひとはほとんどいない!課長、は毎日、業務上登場しているというのに、先日、出社したときに、リアル課長もそこにいたのに、どの人か確認しなかった。休憩時間が終わったときに課長からクッキーがとどいていたと伝言されたのに、ふんふん、と只、自分のかばんにしまった。あれ?こんなにリアルに興味ないのって、なんなの。

今日の、くさりそうなことは、犬か人かくらい区別があるんじゃないか、という扱い。わたしがよく行く公園は、犬を散歩させているひとが集まってくる。犬は犬にしか興味が無いために、飛び付くほど好きか、牽制して吠えるか、反応が露わ。同じことが、犬か人か分類したような人におこっている。犬が犬に反応するくらいもあらわに。しょくばのひとだけど、犬類が、遠目で人をニンシキしようとしているくらいに、こちらをエイリアンに扱ってる。

TORABARA やよい16日

丸2年経つこと。その日は奇跡的に、桜が咲いて、いつもの公園から、富士山が見えることを、通りすがりのひとの会話で知った。富士山のことをわたしの耳に伝える使徒だったか、天からの粋なはからいかしらとおもった。区役所からはタクシーに乗った。二人きりで式を挙げたこと。モエエ・シャンドンで祝福したこと。夜景は東京タワーの灯りで空の色が群青色になっていて、ビルが建ってゆくのがラッシュな頃だったから、首の長い、クレーンが連立している光景を、眺めた。いいね、都会。

神社さんにて厳かな式だったこと。ホテルのお部屋で、神社さんから贈られた品物を、丁寧な包み紙を開けて取り出して、ぐるりまわしてみる。光にかざして眺める。またそれを大事に仕舞ってみる。いいものをいただいたことをたしかめていた。塗りのお椀とか盃。

計画外のことがあったので、いい写真が残せていない。

旦那のひとは、日頃のくたびれがピークになっていて、目が赤いのが引かなかった。式に間に合うように、一週間前から目の病院へも行っていたのに穏やかな薬しか処方されなかったため、赤いままだったなんて。飲み薬だったら即効性があるから、赤いのは引くのに。ちゃんと医者にいえばよかったねと、後々何度も言っている。

わたしは当日、朝の4時には起きていて、眠っていないといかに写真映りがひどくなるかを思い知った。メイクとか着物のスタッフさんに逐一、服や髪を直されながら撮影されて、調子が狂ったとおもう。慣れないシチュエーションで顔面がひきつる。こちらも都度、捨てるほどいやな写真をとられるくらいだったら、点検すればよかった。スタッフさんに、緊張するからつきまとうのを止めて。と言うべきだった。写真を、好きになれない。残したい写真が、全く無くて、このことを引きずってしまい、何ヶ月も、写真っておもうだけで泣くほど、嫌な気持ちで停滞した。今もほとぼりはある。カメラマン←下手。から送られた元データを、捨ててしまったことで、もう頭の中の残像も消えてくれるといいです。

ハレの日なのに、いい写真が残らなかったなんて。誰にもみせたくないのに、「結婚」という「体裁」は、容赦なく写真を廻してしまうものらしい。気に入れるとよかったのに。気に入れるとよかった。

わたしがこころでシャッターをきったほうの、かけがえのないひとつひとつを、ちゃんと覚えていようとおもう。

あ、今日の日記を書くのだった、特に変わったことのない、なんでもない日。2年前の今日を、思い出していた。