TORABARA ふみづき7日

昨日は、朝、半身浴しました。そして夜、9時前に就寝。早っ。

今日は、5時前に起きて、電車に乗って行くほうの、ふんだんに緑がある所へ行きました。倒れた木は、たおしたみたい。もう枯れてて危なかったみたい。もともと木のてっぺんだったところが歩道から手をのばして届いた。ふわっと軽そう柔らかそうな葉っぱ。たおれててくれないと、さわれないところ。貴重だった。

青い蝶々が出迎えてくれました。

見渡せるのは、朝早いとき。

わたしの左側をわたしと同じ歩調で歩く音が聞こえていて、あまりにも同じだから立ち止まってみた。音も止んだ。持ってるバッグの中に入ってるビニール袋の音だったみたい。

野菜を一口大にカットして、フライパンで空炒り2分強火。蓋して2分。油を回しかけて、2分。という野菜の下ごしらえで、とてもおいしくなる。シチュー、カレー、ハッシュドビーフ、によいです。

TORABARA ふみづき6日

蝉の声が聞こえた。今年、初。

ゴムの木の根元に芽吹くこども。

6時間くらい働いて、庭の雑草の花を4種類くらい摘んできてお部屋に飾って、折り紙でモビール作ったりしていたころが、ちょうどよかった。雑念がしずまり、瞑想するような暮らしだったので。

ひととのお付き合いは、やり直しだと思っている。下手な近寄らせ方をしてしまったために、低級な発言を浴びたのかもしれない。キレイ。もだめ、ヤセタ?も、だめ。

たまにしか会わないひとが、毎度しょっぱなにヤセタ?と聞いてくるのを、急に疑問におもった。ようするにこちらを元々、うすらデブだと思っているのか。上から下に発言することがひんぱつして、わたしはこの人からはなれた。

何を見た時に、何を思うか。その感性が嫌いになってしまったら、もう、どうか、なにをみてなにをかんじたか、わたしにきかせるのはやめてください。と思う。

すくいがないのはその、みすぼらしいかんせいでこの先も生きていかなくてはいけない、その人。臭い狭い沼。みたいな感性の人。

TORABARA ふみづき5日

木と同じような生命体のひとというのがいる。植物が水や光を吸収して葉や花にかえるように、花を咲かせつづけるひとには、新たな考えや経験を、処理しつづける必要がある。成長しつづけているから。

と、本に書いてあった。わたしの見解を加えると、ひとの養分って、何がその人にとって養分になるか、まるっきり違う。そのひとの中心的な養分のとりかたを見て、もう付き合えなくなることが、何度かあった。

人をやたら揶揄してくる人にとって、揶揄、することもされることも養分だったりする。だから揶揄することが親しみを伝えることだと思うらしい。これを、わたしは受け付けない。

三面記事ばかりが養分。噂話が養分。枯れる腐る。こういう輩に限って、やたらふひつようなことに巻き込む傾向があるとおもう。こころがきちゃないひとってだいたい群れてる。あなたの人生に出没したら、門前払いをするのですよ、せってんが生じませんように。

ずいぶん、美しい景色に、舵を取っている。

TORABARA ふみづき4日

家のことが、次々とあるから、しごとしてるばあいじゃない。

しごとじかんがおわって、しごととわたしがしっくりきていたときの、こうこつかんと比べてみた。というよりも、しごとがじゅんすいなものだけをさすなら、しばらく、しごとではないものをしごととよんでいる。

しごとがおわってから、スーパーへ行ってヨーグルトを買う。2キロ、氷を買う。自動販売機で毎日新聞を買う。ほしいものと、わたくしは、しっくりきている。

虎まき、おからクッキ、ミモレット、アイルランドチェダー、マルキドシャス赤、夏の花。

TORABARA ふみづき3日

毘沙門天さまが御出現された記念に、百味のお供えをしています。お酒を。寅の祭りは、本日です。時間の方からわたしに味方してくるかんじを、いくつか察したような。お祭りはわたしのことも含んでいたのだろうか。

あらたまった時間があった。あたまでえがくタイミングが、出現するかんじ。時間が「有る」ことの感覚が、子供の頃の時間のかんじは、こんなふうだったことが、甦っていた。大人は常に家具(なにかしらの荷物)を体にくくり付けて不自由にして、身動きがとれていないのに、移動しつづけているようなもの。ミウゴキガトレナイママ、ケワシイカオツキデ、イツモイソイデ、ドコカヘイコウトシテイル。どこへ?

信心というコトバは異なかんじだ。文化的な興味があって心を寄せている。ここにふれて、ひろいこころになることを、寅からの思し召しだとおもう。文化は目に見えるなにかだけではなく、摩訶不思議な神話そのもの。絵巻にものこっている通りです。

撮影したの、5/25が最後になった。

TORABARA ふみづき2日

またしても、10年ぶりくらいの美術館へ行った。茶道具などが展示されていて、千利休が作った、竹の花器とか茶托とか、その分量と傾きが、宇宙的にしっくりくるかんじね。と思いました。千利休へのおもいこみを投影していて、そう思ってるとおもうだけかもしれない。

なにか、割れるような事象、を目にして、参道で長年育っていた巨木が、根の幹から割れて倒れていて、あんましそれを誰も気にしてないみたいだったけど、倒れた事がしぜんなことだったんだろおか。われるというながれ、がわたしにとってニュース。

戒名の事を、ずっと考えている。昨日とは、ま逆なことを想っている。仏の国での名前は、この世で生きた特長を入れて組みあわせて命名をするらしい。

遠い会ったこともない親戚。この世で、人とのご縁がうすいまま(生涯独身)、兄の商売の上がりを食い淵にして、早々に呆けて老人施設に入って、今年仏になった。わたしが伝聞で知ってる丈の、その知らない人の生は、おぼろげでしかないわけで、今世での自分を葬ってもらえる仲を誰ともむすべていなかったところが、可哀想で泣けた。黄泉の国へはなじみやすかったりして。

もうひとり、遠い親戚で、聞いて知ってる丈の知らない人。変な亡くなりかたをした。わたしは、そのひとに手向けて、般若心経を墨で一文字一文字書いて、寺に奉納したのであり、わたしが二時間(写経するのにかかる)をかけて成仏を祈願する以上の、尽くし方は、他にないと思われた。とはいえ、気休めでしかなく、100年200年、成仏などできっこない。自らの業を自らつくってしまう罪は、仏の力が及ばない。

戒名ってン万円。ようするに坊主の儲けだろ?と思った。

般若心経の中に、なんども「無」という文字がでてくる。わたしが、仏さんに無名なことを可哀想がっているけれど、無名、というおさまりどころ。が在るんじゃないかな。

戒名が無いままなおふたかた、ふたりは兄弟。には、血の繋がった親るいは姉だけがご存命で、戒名をつける手配をしないままらしい。この姉の非を責めるかといえば、そうでもないけど、お亡くなりになっているふたりの幽霊が取り憑くとすると、この姉。の他には無いって感じ。

これ以上、この話が近寄ってきてみろ、塩撒いてやるぞ。いいはなしでは無かった。

薩摩藩主、所縁のお庭

TORABARA ふみづき1日

昨日は、仏さんに成ったのに、まだ名前が無い、ことに感じ入ってしまったせいか、枕のところでとめどなく涙があふれてきた。夜明けまで眠れないまま。もうひとつ、昨日の昼間に、一行の発言で雇用形態を記号で呼んでたかしょが耳に留まっていて、名前が無い。といういっしょくたな感傷が、そして夜が作用して、悲哀な気持ちが、どんどん加速していってた。

今日は、朝から目がはれている。くたびれきった後に、ずっしり休んだせいか、癒しに包まれていて不思議。精霊さんがなぐさめていたかもよ、わたしを。

どしゃ降りで、足元はツッカケか長靴にしましょう、ベランダ専用のスリッパで、いきなり街歩きへ出発した。美術館へ。旅するスリッパ。

10年前に、その美術館へ行ったときの、受付女が、客のわたしを睨んでいて、客はわたし一人だったって体験。ケンカ売ってるレベルで、目つきが怖いまま問答したおぼえがある。以来行ってなかった。経営者が入れ替わったこともあるのか、今日は、こんなにいい美術館だったっけと、再発見した。描き手が写ってる写真の年令が近くなってるから、仙人のおじいさん、ではなく、精悍な男に見えた。

作品に色気があった。

ミシュランの★エスニック、前菜よ