ヨガの、とっておきなクラスがある日。夜、出発するまで時間が余っていて、それならば1時間、家のお掃除をしましょ、とおもった。
1時間って、いろんな1時間があるナ。と数えていて、お掃除する1時間は、なかなか良かった。どこかしこ、まとまっておそうじして回ってると、家の居心地は本当に良くなるとおもう。
血のつながりがある方の家、の不愉快な気分を味わった件について、再び。血、に限らずだけど、人には種類があって、言葉の意味の、位置付け方が反る人とは、話していて不快しか残らない。こちらをなんだと思っているのか。
ヘラヘラした便利屋がヘコヘコして、本人は案外楽しそうです、という文章を、わたしの紹介文として、父は本に書きかけていた。そもそも何だとおもっているのか、という怒りもあるし、田舎では、とにかくまずは、へつらう。ということが処世術だとされていたのだったか、それが身体に染みていて、身内を低く言っておいたのか。
はしたなく揶揄う、という傾向が、父にはあり、嫌悪感をもよおす。子供の頃に、わざと家の内側の恥を晒すような文章をPTA会報に寄稿し、いい迷惑だった。なにかおもしろいのか、だれかよろこぶのか。
さだまさしの歌の歌詞は、今の時代にはそぐわないように思う。亭主関白かなんか、何かのハラスに分類されると思う。聞いていると不愉快になる。わたしは、さだまさしの、ものごとの感じ方を好まない。父は、このひとの歌が大好きで、いつしか歌の影響が思想になってるように、わたしには見受けられる。
思想の癖を、そのままひとの歪みだとして、なにかもっと初源的に、いかりをおぼえる。いかり、というか醜悪じゃね?みたいな察知をする。歩き方の癖で、大きく外から鎌みたいに足を廻して内股で歩くひとが知り合いにいたとき、この癖には即刻の嫌悪感をいだいた。性格のただならなさに直結している気がした。直せば治ることを放っておく、というのがその人のセンス。それでいいんだね、そのひとは。自由だけど、わたしは敬遠したいかんじ。
他者からの目をどう捉えるかによって、洗練されてゆくか野暮なままか、別れる。直さないまま、というそのひとの限界。
人に対して、偏狭な視界で決めつけて、どこか閉じこめてしまう、その窮屈さから身動き出来なくさせる。というのが田舎にはあって、典型的なパタンに嵌めるというか。田舎では、鬱屈に起因する事件は、ちょいちょい起こる。その片鱗が、しっかり血のつながりがある田舎にいるひとたちにも見えますねー
というのが、先日、わたくしがあじわった、家にまつわる一連の不愉快でした。