今日は、毛糸編みをいっぱい出来てよかった。
わたしはわたしである。アイデンティティというコトバはアメリカの心理学者、エリクソンが発端で流行った。社会的役割と自己実現を合致させて職業によって身を固めることを指して、アイデンティティが「有る」ことになる、ような学説。
これは男の原理でしかない、と女の反発があった。老人はどうなのか。という視点もある。
じぶんは「御先祖様」になると言っている老人が、少し前の日本の田舎にいた。元大工。失うことのないきょうちを支えとする、これぞ真の、自己確認であろうよ、アイデンティティとはいかなるものか。
近年の、客観的な論理に拠った、おぼろな自己確認、しか出来ていないような風潮。ノイローゼ患者が増えたことと、直截な相関性があろう。科学的裏付け、が押し出されてだけいることで、狭義な理屈でしか生きられていないような、きゅうくつさは、生きにくいよね。
わたしはだあれ。
わたしはだあれ。ってコトバは、わたしに響く。夢幻みたいなイメージをともなう。
何かの会話をしていて、例えば、時間長いですね、としゃべった瞬間に、長いといえば、昨日の夢に出てきた鳥の尾が長かったな、と頭の中に浮かぶ。これを口にすれば、なんか頭がおかしいひとと思われるのかも、けれども、何層ものイメージの重なりがあって、ほんの一片、氷山の一角だけ、顕在意識になって露われ、さらにそのつたない断片のみがコトバになっている。
50の言語で事足りるひとと、50000の言語を繰り広げるひと。つまり、脳を遊ばせることが、とてもとても大事。って気がした。
出典の主なところ:河合隼雄さんの本