親子ほども歳の離れたコの、ほんのちょっとした生意気さが気に入らない。わたし親にならなくてよかった。こういった生意気さに太刀打ちするためのおばさん力も、付けなくて済んでる。
親になると子供を叱るための「警告音」が出せるようになるらしい。お気の毒だけど親になった人の声が聞き苦しいシロモノになる、のは経験上、公の場で叱り倒している親の姿を見て知ってる。近辺にある、ヒステリーにわめく声音が、虫の出す特殊能力級に、警告って種類だったとはね。
親。というと一般論で敬うもの、とだけされる。ここに異議があってもやすやす、表立っては言わないお約束になっていた。毒親。というコトバがやっと近年出回ったりして、おっ。と思ってる。わたしにとって、身内という領域こそが不公平の温床で、とくに古い世代の封建的な考えが根強く残るひとたちなので、
考え、というよりも封建制度で洗脳された状態のひと。その当人にとってのあたりまえを疑ったことが無いひと。田舎の内に篭って丈いることで、自分たちの流儀でまかり通ってしまった。生きた社会、ではなく冥界にでもいるひとのような難解な偏りを帯びている。
わたしが社会に出ているときの方が、訳の分からなさが少ない。とくに資本主義の、合理的な落とし込みどころは、会社を横断しても、共有できたりする。良い悪いは、ちょっと別にしてるけど
今までは、この合点が面白く、やり甲斐あるねー。なんて思っていたわけだけれど、どの会社にも言えてるけど、物の考え方に偏りがあって、その「偏り」具合が似たひとがあつまってきている。その会社が集めるわけだから、そりゃ似るか。弱点、というか角度によって、やばっ。とか思う。
自分にとっての、ホームを探す。と、最近読んだ本にでてきていた事と、目の前の事象を照らし合わせて、
わたしにとってのホームに行かなくちゃ。ってなんの話だったっけ、
そうそう、生意気な若いコ、自分の家にしか馴染んでいないコが社会に出ていく、成長過程で、謙虚さが欠けてる場合には、会社横断可能な普遍的な存在にはなり得ないだろうなー。と冷ややかに思いましたとさ。
それでアウェイの話になるけれど、なんか、ここでの体験は、欲しいものとは違うな。って話。というのと、
警告音を出すのは違うけれど、自分の言葉で、ありったけは発してゆくかどおか、今日いちにちをとおして考えていたような日。ここでの私の役割とは、そこに歪があれば正す、なのかどおか、どんなものかね。頁をめくるかも。どうするか。