台風が来ていて、しかし風が吹くではなく、まっすぐに落ちる雨音が聞こえている。ときおり、音は強くなる という日でした。
奥歯をかみしめているせいで、顔は、四角くなるとおもう。
父の考え方が、父の限界であることを知れば、諦めがつくのかとおもう。ひとには必要で忘れていることがある。それをいきなり白昼に、あぶりだされた。これは、暴力だった。
わたしが昔、病気をして、その病気の回復のしるし、みたいに、どこか道を徘徊していたらしい。自分自身で、それを覚えているわけではない。
父は、自分の表現の場所に、この光景を持ち出し、黄色い救急車(田舎ではそう呼ぶ)で運ばれるあんけん、それが我が娘、自分は、それに耐えた。といった主旨の詩を発表した。このたび、これは自費出版の本になったのだが、なんじゅうねんも、句会とやらで、内情は、わたしの病気は、とっくに曝露されていたのであろう。
句会という名のシロウトの群れ、に嫌悪を示している。赤裸々な、家族の実態を吐き出し合って、刺激的だとよろこびあっているような、いやらしい集合体。父は、自称歌人でしかない、と父をなじった。長年、父が取り組んでいることを、台無しにする発言になり、申し訳なかったけれども、生半可なシロウトが、歌など詠むから事故になった。
徘徊をした、かどおか、父の描写によって、私自身、そのシーンが脳内をぐるぐる回るのだが、架空か現実か区別できない。わたしにとっは忘却のかなたである。冒頭でも言っているけど、いよいよ回復の兆しがあったから、歩きまわれましたね、これがわたしの解釈になる。けど、父は、恥で隠しておくことを、僕が書いた勇気、くらいにおもったのだろうか。一斉に読者を味方に付けて、黄色い救急車に、後ろ指をさす。
きがふれた娘、自分の娘に非ず、みたいに書かれていた。一度きがふれたいじょうは、きがふれている枠に固定され続ける。この田舎ならではのレッテルの貼り方に、わたしは田舎者(父)の愚かさを見る。
わたしは、父が、どのような立ち位置で書いたのかを、問い合わせた。娘を川向こうのキチガイと位置付けて、僕ちゃんは、こちら側の人間ですよみなさん、と踏み絵をしてみせたんですか。十二分な視座が、シロウトさん(父)には獲得できていない。
娘が徘徊したかどおか、何故、父によって公表されなければいけないのか、その徘徊した姿が娘に非ず、と書く、あけすけに「醜さ」を込めてある。
ネタになるから、わざと書いてみせる。なにしろ読者の大半は、三面記事にコーフンする覗き見を好むひとたちなのだ。その的に、わたしの徘徊を、え?ネタにするか?我が娘をネタにして差し出すという神経は、異常だろ。
どこだろう、本出版の事件は、何層にも、耐えられない嫌な出来事である。
父に向かって、ほほえみかたを忘れる。