TORABARA しわす19日

今日は、しごと先の人達は、忘年会で集まる。わたしは不参加。それを、観察していた。自分が、本当は行きたかったりして。という推測。しかしさっぱり、他人事にしか思えていない。

本当は、ここを離れたいと思っているか、離れたさが70%いてもいい気持ちは60%。はなれるかとどまるか、を足して100パーセントではなく、なにか独立した気持ちの配置をしている。

離婚も、そのようなかんじ。離婚したいきもちは60%いっしょに暮らしてていいきもちは70%。それぞれの気持ちが育っているイメージ。

残業して、スパゲティ食べて、おやつは、旅の土産をいろいろ食べていて嬉しい時間になっていた。日曜市で買ってたやつの、買った時の光景も楽しかったから。

わたしの田舎は、村社会で息苦しさがあった。その村を離れたから、そこが合わなかったことを知ることができた。村人のまま、そういうものだと諦めなくてよかった。

わたしは振り返ると、外敵から自分をひとりで護るしかない。という処世術でやりすごしてきた。初めて高知県へ行って、ただの素なわたしが溶けこめそうな体感があった。わたしのふる里がここなら、子供を産み落として育てる、ことをイメージできるかんじ。まわりといったいかんができてまもられるかんじ。

それはもう幻だけど、ここで生まれていたら、ここをはなれないまま生活していたのかも。

キンキン声を張り上げてわめく。女のヒステリーが、とにかくダメで、子供がキライというよりは、主婦という生態に、混じれる筈が無かった。忌み嫌っていた的は、主婦だ。子供を産んで、女の仕事すべて果たしたわなどとのさばる、その主婦め。おまえに似たガキ作ってることはクズだろ、人類の平均値下げるなや。おまえに育てられるしかないガキの不幸。

いったい、わたしはなにに腹を立てていたやら、憑き物が落ちるみたいに、スッと、

高知県で生きてたら、しあわせだったんじゃないかしら。みたいなないものねだりな、憧れの念が、わきおこっていて、もうこどもをうむねんれいではなくなっていて、この念を郷愁って名付ける。