出社して、しごとの後に、しごと場所そばのヨガ教室に行く日。荷物が、カバンの中が、ぎゅうぎゅう詰めで、とんでもなく不自由なかんじがした。
しごとの後で、時間の決まっている用事は、拘束されていて息苦しさがあった。
もう、ここでヨガの予約入れるのは、やめよう。
しごと先で、不幸があった時の集まりで配られたお菓子が過剰にあるので、持ってきました、というお菓子を渡された。線香の匂いが付いているわけではなかったけれども、そういうの、持ち出さないで自宅で消費しろよ、と思った。
出社して、しごとの後に、しごと場所そばのヨガ教室に行く日。荷物が、カバンの中が、ぎゅうぎゅう詰めで、とんでもなく不自由なかんじがした。
しごとの後で、時間の決まっている用事は、拘束されていて息苦しさがあった。
もう、ここでヨガの予約入れるのは、やめよう。
しごと先で、不幸があった時の集まりで配られたお菓子が過剰にあるので、持ってきました、というお菓子を渡された。線香の匂いが付いているわけではなかったけれども、そういうの、持ち出さないで自宅で消費しろよ、と思った。
お誕生日のプレゼントを、かなり前倒しで、家の人が買ってくれた。アウターが増えてて、もうこれ以上、アウターは要らないね、と言って家を出発したのに、
アウターを2着、新調してくれた。
親戚の話。集金の頭数に入れられてるけど、その親戚のコの顔も知らない。会ったことないってこと。歳も知らない。暇な田舎のひとたちは、しがらみを捏ね回すことで、まきおこる刺激を養分にして、生きてるのかも。
母の出自が400年続いてる家なのだけど、家の庭には樹齢400年近い、椎の木があったりするけど、現在および先代の家主と、わたしは折り合いが悪く、その門をなんじゅうねんも、くぐっていない。
それを闘いのように、わたしは内にかかえてきたのかも。対峙する的が、400年の伝統、くらい大袈裟にとらえてきた。得体の知れない、その古い家の流儀から、どうやらわたしは否定されているみたい。といういごこちは、なまやさしいものではなかった。
それにしても、できることならば付き合わせないで終いにして下さい。子供の頃に、その家の歪は見抜いたとおもう。
その家で年に何回か、大勢の人が集まる機会があり、人の手を借りる、という状況があり、小学生のわたしは借り出された。その場に、たしか中学に上がってる歳の、かなちゃんという親戚も手伝いに来ていたとおもうけど、かなちゃんのことは家の人たちから嫌われていて、大人たちが、早く返せ、顔見たくない、みたいな会話をあけすけにしていて、本当に間もなくして、タクシーに乗せられたのか、親に引き取りに来させたのか、帰らされてしまった。怖。
小学生のわたしは、かなり凍りついた。嫌われるかどおか、そこに公平な基準などが存在しない。美醜、への好みに尽きる。くらい、わけのわからない判断をくだされる。かなちゃんに類するふうにってことと思われるけど、ゆくゆく、のちのち、二度と呼ばれなくなるぶんざいにわたしがなった。
そういう場所があるということ。説明はつかない。そして、器をはかられた末、顔も合わせないまま、集金出来る頭数に入れられて、その家のむすこさんが何か成される祝いで、わたしから集金することになったレンラクが、(私の親から)昨日の16時に入る。むすこさんの顔も知らない。むすこさんが存在するってことは伝え聞いていたけど、歳も名前も覚えていないし、という状況。
可愛がられる場合は、何度も家に上げて、都度、お金を包まれ、相談に乗り、ひつようならばおふだまで用意して渡す、らしい実態を近年知った。容赦ない差異は、闇をうむよね、
そういういなかにあるはなし。
朝、ヨガへ。始まりの時間ギリギリでスタジオに入った。来る時、道に迷って、この時間になる。
自然にまかせる という過ごし心地 ままよ、でこうなった。
帰宅してから、明治神宮さんへ行く。お茶やさんがいらっしゃってたので、当選のお礼を言えた。あら、それ一等じゃない?と言われて、飛び跳ねるほど嬉しい気持ちになった。聞けて良かったわ、とお茶屋さんがおっしゃってた。心根がよいひとの、咄嗟のひとことに、いやされる。とても。
中央線に乗るのは久しぶり。路線によって乗ってるひとの顔つきに特徴があるような気がする。中央線顔ってあるよな、というのを、車内に見つけてた。美術館へ行って、わたしにはいい絵に見えない展示を、早歩きで廻る。隣駅
へ向かう筈が、逆方向の電車に乗ってた。かつて通った駅で、めったに来なくなった、みちがえるほど新しくなってる、そしてここにわたしは、未消化な念をいっぱい落としたままな気もする。ホームに立って電車を待つ時に、いたたまれないようなここち、が多かった場所。その磁場のような気配が、同じ場所に、そのままの空気の粒子が今もあって、おどろいた。装飾が変わっても、ここはここのままだ。そして
懐かしいかんじ、と思った。しばしの、哀愁が漂った。
さてと。吉祥寺へ。お茶屋さん、どこに入ろうかな、と徘徊してレトロな喫茶店にする。プリンアラモードを注文した。
不毛の禿げ山、だという通い心地があった土地、只の真っ直ぐなアスファルトを、人工的に敷いて、取ってつけたような商店が、ダサい品物を並べていた。粗い、空気感。浮ついた、頭の軽そうな、ノリだけの反応を繰り返す、言語活動。反射的に、なんでも済ませる。深みとか拘りが、抱え(hold)られないから、浅瀬にだけいる生き物。親の金を握り、買ったばかりのものをしょっちゅう着ている。しかし独自なセンスは、ゼロ。みんなと同じような、が合言葉なのか、群れないと生きられない、種。弱さ。脆さ。
わたしの過去に見ていた光景、そこで逃げ場がなくなっている、八方塞がりな状況は、今おもいかえしても、厄そのものだ。そこは離れなさい、という信号を、ちゃんと感じる練習だったのか。
今は、どうだろう、意に介さないひと、はゴマンといて、わたしは、真空状態のような箱に入っているまま、やりすごしている。結界を引いて、こちらに入りようが無い、という策。
周りには、自分を鏡で見るようなかんきょうが、用意される説。煮え切らないようなあれこれが勃発して、並行して、過去を振り返るなかにヒントを探したいのかも。今今の環境の、生簀かなさも、じっくりコトバにしてゆく。じぶんじしんの執念と、取り組む。
本日をもちまして週末。
夜、ヨガへ行く。その前に、家のひとが美味しいミートスパゲティ作ってくれた。
昼間、大量に食べたことによる満腹。それでダラニスケを飲む。夜のヨガは、髪の色が、漂白された金髪みたいな先生だった。愛想がよくないため、なんかこのひと、好き嫌いが態度に出すぎるタイプ?などと観察した。
夜風が、冷たいほど空気が澄んでいて、空気がおいしい。ひとときの自転車は、なんといっても気分転換だ。
ヨガから帰り、ゆっくりお風呂に入り、お料理の下拵えと、掃除をした。そして寝た。
朝の電車がヒドイ。ぎゅーぎゅー詰めで、一台乗るのを見送り、次の電車に乗ったものの、たったの3駅進んで止まってしまう。混み合っていて、ジーッと身動きしない状態で、停車したまま。車内の空気が薄くなり、つまりは二酸化炭素が充満した。いったい、何十分経ったの?わたしは携帯を忘れていて、向かう先へ、遅れる連絡が入れられない。
とにかく車外に出て、引き返す方の電車に乗る。あと一つ進んでくれたら乗り換えができたのだけど、それはいつだったの、たったの、これだけ、行き来した丈で、(改札通過時間調べ)1時間経ってた。
満員電車なまま、体を固めたまま閉じこめられた、気持ちへも圧迫があったし、たしかに直後は動悸のような症状もあった。しかし、一時的な不調不快を云々言ってるつもりはなく、電話を忘れて、会社開始時間になってしまってる、ユクエフメイナジカンヲフヤシテシマウことへの懸念で、電話を取りに自宅に引き返した。
それを、殊更に、体調不良があった部分だけを繰り返す、会社のひと。弱みを掴む、みたいに、体調無理せず、かなんか言ってて、ズレてた。
ズレる。ということを、まざまざと見た。位相が、各個人、違ったままなのだ。何故か物理的に、その人がいることになってるけど、事実のなぞり方に於いて、相手にならない異星っぷり。何度か言葉が通うか試みたけど、徒労だった。
午前中バタバタしたのでお腹が空いてピザを丸ごと一枚たいらげた。それと夜、海を眺めた。夜景のランプが落ちている水面を。それと、海路で日本橋へ行けるらしい。次回、乗ってみる。それと
家のひとに長めのチョッキのおつかいをたのまれていて、毛足のある白いのを買った。お尻がかくれるくらい長いやつ、と聞いてたけど、綿の入ったダウン限定で所望だったらしい。
わっはっは。白い毛皮のチョッキ、かわいいのが、私の服になった。
今日は、注文していた日本酒と、注文していたジャンパーが、同時に届いた。朝。ピンポーン、と鳴って、配送業者さんは別々なのに!先ず、日本酒の人が階段を上がり、ジャンパーの人は門の内側、階段の上がり口で待機された。
出待ちならぬ、モテモテなこの状況を、名付けたい気持ち。ありがとう。ありがとう。
ところで、仕事に飽きた。何日か前に、同じような退屈、気怠さがあり、その翌日、かなり太い一本の白髪を発見した。浦島太郎がいっきに白髪になる話は、あながち嘘ではなくて、白に染まるのは瞬間。なのではないかとにらむ。
気分変えないと、白くなる焦り、が転じて、仕事の後おいしーく日本酒いただき、のほほんとしていた。
好きなこと。いち、レコードをかける。単旋律、ヴァイオリンを。に、ピアノ弾く。さん、フェルトでアプリケ縫う。に、とさん、は子供の頃と同じ。
made in Scotlandのウールでスーツを作ろうとおもう。型紙をひいて、型紙をきりとり、布裁断まで進む。アプリケを縫うか、明日、考えよっと。
久しぶりに仕事。勝負は、仕事後の時間の過ごし方だ、と朝から、待ち遠しかった。
図書館へ行き、スーパーのエコ回収ポストにプラスチックを投入し、ちょっと買い出しもして帰宅した。熱々のお風呂に入り、生クリームを使いきらねば、とパンを焼いた。
仕事後時間X、くらいに自分で盛り上がったわりには、へとへとになり、くだらないネットニュースを検索し、だらだらしたまま寝る。
昼の話。野鳥が間近の電線にとまってくれて、ひょい、と私の家の屋根にもお登りあそばせた。何羽か、仲間とかわるがわる。尾長の、飛び姿が鳳凰みたいな鳥。鳥が来る家は、吉兆が有るってことらしいよ、嬉しい。
よんれんきゅうは、きょうでおしまい。
午後に、ヨガ教室へ行く。他になんにも予定しない珍しい日。わたしの布コレクションが押し入れに有る、それを一旦外に出して見た日。ちょっと茫然とした。これらを生かすため、暮らしを組み立てなおすひつようがある。どこから?
手仕事は、とにかく時間がかかる。それを知っていることを宝だとおもう。反対語はインスタントで済ませる、だと思う。インスタントでしか済ませてこなかった人、というのを、普段、かぎわけている気がする。私。
合理的で経済効率がいい、という所にかまけると、どんどん人に空洞化が進む気がする。指示を与えてる丈な人って空疎だよね、
なにかをやる。すなわち自分で作る。
ここに重心を置くのだ。わたしにとってシフトを変える事になる。とくにふり返って、ここ一年は、旅に行く。お金をつかう。わたしが客。という時間だった。
いつかお金が貯まったら旅したい、というのを稼いだぶん、普段なるべく旅をする。というカタチにしていて、とっても楽しく旅が出来ていたのだけれど。
先ずは一着、欲しいと思うカタチの服を作ろうとおもう。