TORABARA しもつき5日

家にいた日。夜、コピーをとりにいく用事。わたしにかぎらずかもしれないけれど、身分証明の写真映りの気に食わなさ。役所で順番に写真を撮ってもらう場面で、クシが置いてあったとおもうけど、共用のクシなど使わなくてよかった。ごあいきょうで梳かして、額の上辺が直角の三角になってしまってる。白い三角の布でも付けてる形。ウラメシヤーと、ベタに言いそう。そしてとても不自然に少し笑った顔。冬に顔は下膨れしている。

この顔、私なんだろうけど、とにかく透明フィルムに入れてる時は、シールを貼って顔を見えなくしている。多分、自分の気に入るように矯正した写真を用意して、見とれることが出来れば、その顔付きに成る、あるいは写真への苦手がなくなるかも。

みたいな一連のもの思いを、写真見る度にしている。とにかく、両面コピーとらなくちゃなので、視界にちらっと入る、どころか焼き付くほど見て、気分を害している。

とまで言われて、かわいそうなわたしの写真。

TORABARA しもつき4日

晴れ渡った空。公園の植木市場は昨日までだったか。透明な緑、な多肉植物で欲しいやつ、パッと買っておけばよかった。

八百屋に行って、お昼はシチュー食べて、こんないいお天気、図書館に本を返しに行く道中、が最大にお天気を楽しむ時間になる。

神社さんへ行き、お茶の葉をくださいと言って、なんか遅いな、と見たら、ぎゅうぎゅう。とありったけ袋に詰めてくれていた。真剣な顔で!

上野。博物館にて、お宝を見て回りましょう。

ぎゃー、リアルよりもリアルな柘榴

近所の老人と待ち合わせて、バスに乗って、浅草へゆく。いつもの蕎麦屋さん、笹の川の熱燗と海老天ざるそば。そののち、コーヒー屋さんへも行く。

このごろ、老人には勢いが無く、澱むような気が漂うことを、分析するけど、お金の制限。が優先順位の筆頭にあるらしいところ。お金の枠をさわりつづける、お金に自由だ、と言えば言うほどに虚しい老人。勢いがあれば、お金は化けてゆける。食べたいのが鴨南蛮なら食えよ、安いからなめこ蕎麦、なのは哀しい。

かなしみ。考え方の枠が、こわれてゆくことで、人に革命がおこる。枠を守ることは、かなしみでしかない。

TORABARA しもつき3日

たま方面へ行く。美術を見て

芙蓉

スウェーデン発祥の倉庫、いつも行くお店へ行きました。混んでる。

かまわず、食堂へ。シャケがボイルしてあるステーキ、マッシュポテト、インゲンがソテーしてある。白ワイン。ハートの形プレッツェルをいただく。かまわず、と言ったけど、しゅうまつのこんざつのなかに、ひとりで行動しているわたしはなんだろ。まよこのテーブルで会話しているのを、そのまま聞いてる、くらい近い。

その、まよこの人たちが、あんがいおとなしい話題で、気にならなかった。ことがよかった。

お店の中を練り歩いて、これは。というのを選ぶのが楽しい。お店の相性があって、お店のテンションと、わたしの暮らしの温度感が、ここは、うまくいくことが多い。IKEA。

そして、夜の公園へ。澄みきった空気。道ではないところに大きな闇がある。そうそう、空間が広いのだよ、宇宙空間が地上空間と混じってる。

ライトアップしていて、黄色になってるって。
形、キレイだね。

TORABARA しもつき2日

まず、パレードを画面で観る。青と白の紙吹雪がきれい。スーパーにて焼き芋を買ったけど、青い色のマーガレットも、青い花を祝いでね、買って飾ろう。

町田にて版画展を見た。

レジェ

いつも盛りだくさんな作品で、へとへとになる。図録、買っちゃうわ。

ホットココア飲む。雨やどりしつつ、さっそく図録を鑑賞いたしました。

帰り道に、毛糸がいっぱい売っているお店、地下一階ぜんぶが毛糸のフロアよーー、今編んでる糸と同じのを見つける。この糸は廃番になったと思ってたので、つまり身頃の半分は別の糸。でボレロを編んでるところなのだ、1着にまとめるとき、全体に、使うといいわーー、2玉買っておく。

実はわたし、20代の終わりの頃、この土地の近辺に住んだ。半年も住まなかったけど。なんの身寄りも無い状態、お金で何かを買うことで、そこにある店とのつながりが生じる。以上。みたいな状態。彷徨う旅人のような時間だったと振り返る。アスファルトとしてのここは、何度か歩いてたとおもう。

通りは前も今もここにある。ということ。昔のわたしが、わたしの念が、かすかに残っているように思うことがある。時間帯だとかなにか、符合したときに。なんだっけな、町田って思いながら歩く、町田。

TORABARA しもつき1日

家の中にいる人も、ひとりのプレイヤーであろうけれど、周りに撒き散らす溜め息とか、手を挙げてこちらが話しかけることを制す、その挙動は、非常によろしくない。床が奈落に堕ちて即刻、存在よ私の視界から消えろ。という程、ないないない。

っておもう。来年3月までで、ケッコンケイヤク終わろうか、ゲームみたいに考えればOFFってかんじ。

さっ。と、週末の夜の映画館へ行くわたくし。90年代はじめ頃に、インディーズロックが出てきていて、同時代にはさっぱり意味不明だった音。これを紐解くような映画の画面で、めちゃくちゃいいじゃん、ギターもボーカルも、歌詞が脈絡ないのもいい。とにかく、20歳くらいのギターの男二人が音楽を始めて、ハッパ臭いレコーディングスタジオを経営してた40歳のギャリーがドラムで加わった。その、ギャリーのはちゃめちゃな伝記映画だった。

多動症、というのは現代だと病気らしいけど、魂の元気が良過ぎる状態だとおもう。それでお酒も薬も、浴びてても魂の方が強くて元気なため、お酒や薬側から支配されることがない。そういう印象。しっかりアル中だけど。ハハハ。

ギャリーの、瞳の輝き。を見れば、彼を憎めない。舞台の上で逆立ちする。劇場の玄関で客に食べ物とか配り出す。派手な服で目立とうとする。次の瞬間に何が飛び出すかわからない。

パフォーマンスをする人物への、周りの許容度が実に深い。ダメが無い。かぎりなくはんざいにちかくてもひとのこうどうをそししないこと。アメリカで育って、この自由が身についていることが、うらやましい。

なにをCOOLって呼ぶか。すごいかっこいい時代だよ、92年に誕生したアルバムが奇跡。ペイヴメントってバンド。いい映画を観た。まさかエンドロールで泣きそうになるなんて。

TORABARA かんなづき31日

世の中がかぼちゃを食べてる日に、ちょうどどうしてもかぼちゃを食べたい。だんご汁に入れるためです。大分県へ旅したときのお土産、乾麺を、いよいよ鍋にしたのだ。

世の中の盛り上がり、かどおかわからないけど、にわかに数日間、わたしが画面を観ていた、スポーツの試合で、優勝だとかで、これは私の思い込みを超えて、本当に逆転して、優勝してしまった。

日本では最高の投手だったそうで今年から加わっている人の、前々回の登板で、けっこう大量の失点があって、2時間、喫茶店でキケヘルナンデスが向かい合って話した。らしい。なんか、人同士、鉄人のくくり、雲の上って人も、人の心の通わせ方は普通なんだね、それと登板前の顔面、ひきつりすぎじゃね?

という冷やかしでながめてた、山本。

二回戦での投球内容は、惚れるのに充分だった。そして、どこかしこにカメラが廻っていて眺めてると、なにげなく記者とか球団の人に囲まれてるときの笑顔が素敵なのと、漂うのは孤独なようす。孤高というか。ひとり、考え、ひとり、行動する。日本の武士。wikiで調べたところ、投球を生み出すのに独創があるとのこと。わたし、このひとのこと好きだ。好き好き好き。

好きになってしまう。

シャンパンファイトで、目に入ったお酒を、ぬぐうのを、格好いい仕草のほうがいい、と見た目をこころがけていそうな感じ。がんばれ山本。

TORABARA かんなづき30日

毛糸編みもした。

昼はラーメン。夜は、ミートスパゲティ。どちらも美味しゅうございました。

新しい赤ワインの瓶を開けましょ。EXOPTO、やわらかな、単旋律の演奏みたいな味。弦楽四重奏くらい合わさった味かな、オーケストラじゃない。騒がしくない味。高級。

店をやっていた時に来てた客、というか知り合いの出版社勤務のおじさん、からLINEに連絡が入ってくる。店の給仕に、お目当ての娘がいた。それを斡旋してほしいような邪なチョッカイだったと思う。LINEの窓に、内容が見えて読めたので、無視。そののちのおじさんの反撃がすさまじかった。

時間は夜中1時40分、暴言を吐いた、漢字四文字。これも、LINEの窓で見えた。ありえない。とても親しい人が喧嘩してて浴びせる場合、情が昂じたと解釈出来るけれども、そのおじさん、ほぼ知らないし。このLINE上に激情がのってる時点で、異常者だ。てめーコノヤロウ。

LINEのブロックと、トークルーム削除を処置した。着歴、そのおじさんは更に電話して、こちらに何をしゃべる気だったんだ、腹立つわ。おさまらない。出版社勤め、を鼻にかけて、偉いと思ってるらしい。こちらを弱者としたからこそ、気安くなりやがったか、許されない。おぼえておけよ

TORABARA かんなづき29日

今日は、毛糸編みをいっぱい出来てよかった。

わたしはわたしである。アイデンティティというコトバはアメリカの心理学者、エリクソンが発端で流行った。社会的役割と自己実現を合致させて職業によって身を固めることを指して、アイデンティティが「有る」ことになる、ような学説。

これは男の原理でしかない、と女の反発があった。老人はどうなのか。という視点もある。

じぶんは「御先祖様」になると言っている老人が、少し前の日本の田舎にいた。元大工。失うことのないきょうちを支えとする、これぞ真の、自己確認であろうよ、アイデンティティとはいかなるものか。

近年の、客観的な論理に拠った、おぼろな自己確認、しか出来ていないような風潮。ノイローゼ患者が増えたことと、直截な相関性があろう。科学的裏付け、が押し出されてだけいることで、狭義な理屈でしか生きられていないような、きゅうくつさは、生きにくいよね。

わたしはだあれ。

わたしはだあれ。ってコトバは、わたしに響く。夢幻みたいなイメージをともなう。

何かの会話をしていて、例えば、時間長いですね、としゃべった瞬間に、長いといえば、昨日の夢に出てきた鳥の尾が長かったな、と頭の中に浮かぶ。これを口にすれば、なんか頭がおかしいひとと思われるのかも、けれども、何層ものイメージの重なりがあって、ほんの一片、氷山の一角だけ、顕在意識になって露われ、さらにそのつたない断片のみがコトバになっている。

50の言語で事足りるひとと、50000の言語を繰り広げるひと。つまり、脳を遊ばせることが、とてもとても大事。って気がした。

出典の主なところ:河合隼雄さんの本