紅葉を見たい欲。

おうつくしい。
肌色の毛糸を編み始めた。ノルマ。なことをいくつか片付けた。鰹節の入ったきんぴら作ったり、大根おろしを剃っておく。包丁を研いだり。
朝からおもいだしたかった絵本、ふいに閃いた。ハロルドだわ。この頃、絵本のとおりに、クレヨンで描いたままが、出現するみたいに、形になる。物資化してゆくかんじ。
ハロルドのふしぎなぼうけん。クロケット ジョンソン著。
紅葉を見たい欲。
おうつくしい。
肌色の毛糸を編み始めた。ノルマ。なことをいくつか片付けた。鰹節の入ったきんぴら作ったり、大根おろしを剃っておく。包丁を研いだり。
朝からおもいだしたかった絵本、ふいに閃いた。ハロルドだわ。この頃、絵本のとおりに、クレヨンで描いたままが、出現するみたいに、形になる。物資化してゆくかんじ。
ハロルドのふしぎなぼうけん。クロケット ジョンソン著。
南側は、植物にとって魅力らしくて、ベランダに置いている、葉っぱだけになったアマリリスが、ぐいぐい、手摺りの向こうに葉っぱを伸ばしてゆく。
シゴトでイマイチなのは、シゴトの内容でわたしが気付けない誤りがある。わたしの盲点が、ありあり、明かされることが、しゃく。それが尾をひいて、イマイチ、家の中でもうろうとしていた。
まさか、また、寝てしまうなんて。夢が、わたしの体験を砂にして流していった。気にしなくていいって言われたみたいだった。
体の症状って、感情の表現らしい。なにかの拍子で、くるっ。と体の調子が良くなったりするよね。
ガーガー、夜の時間に画面の前でうるさい人。別室で毛糸編みを始めようとして、まず模様編みの図案を本から選ぼうとしてたのに、いつの間にか寝てた日。
わたしの寛ぎは、クラシック音楽を聴いて、うす暗いお部屋の手元だけを明りを灯す。クラシック音楽は、自分で弾いてもいい。ピアノを。
忙しい空気を、ものともしないで、着々と計画をすすめたい。毛糸編み。その前に、計画を作ろう。
ヨガで、むつかしいポーズをしながら、呼吸を通す訓練、というのを習ったことがあるけど、日常の、外界を気にしない。というところに応用したい。
かぼちゃを食べる日だったかも。忘れた。
栗の鬼皮と渋皮を剥く日。よかった、この倍買ってこなくて。ゆうにいちじかん。もっとかかっている。渋皮煮は憧れのままで、実だけを茹でて、ポロポロな栗さん、お砂糖で煮てブランデーに漬けましょう。
一週間の句読点みたいに、ショッピングモールを歩いてまわった。欲しい物、必要なもの、これからの季節にあるといい物は何かな。今は、ひととおり揃っている。来月とかに、来年用の特上の下着を買っちゃったりしよう。
読み途中の本だけど、この作者の思想には枠を感じる。生い立ちで一律、ひとが何を浴びるかを、自分の経てきた事にしか照らしていないのに、万人がこうだと決めてある。こういうメンタル世界の本を読む人に、同類はもちろん見つかって、展開させているユーチューブもそこそこ繁盛するとは思うけど、わたしはこのひとの思想に触れたところで、もの足りなかった。
そもそもしあわせになりましたね、という項目に雇用形態、ゆくゆく正社員で出世、周りのお引き立て、人との軋轢解消、出逢いと結婚。が、筋のように書かれている、この決まりきったレールは、何?わかりきった承認欲求にしか沿えないのか?という疑問こそがメンタル世界への興味の入り口ではないの?
みちよ著 引き寄せの法則
つかみにくいことへの自分軸を持つ。みちよさんには悪いけど、読まなくていいと思った理由をここに書いた。
今日は、前から約束していた用事の日。朝、せっかく雨があがったのに公園を歩かなかったので残念。用事って丈の日になってほしくなかった。
バスに乗った。最後部の席がいいと、連れが座ってしまったので渋々。ここ、揺れるのに。そして、車酔いした。せっかく持ち込んだ上等のコーヒーを残した。
どこにいても、空に囲まれている土地。黄金色の田んぼも広い。川が何筋も立ち現れるところも、いいね。
人との付き合いの、煩わしさをなくすには。この課題は、基層にあるきがしている。わたしの弱点で、どうしても守るひつようがあるのは、他人としがらめない。他人とは、しがらまなくていい。
そして、シンセキと付き合う時に最初に壊されるのも、ここ。しがらまなくてはやれない。先ず、しがらみが生じる。物を次々に戴いたけど、直にお返ししなくては。としか考えていない時点で、付き合いオンチだよね、わたし。
何時間も、途方もないくらい、去年の冬中ずっと編んでいて編み上がったブランケットを、あげるかどおか、あげるべきか。手間を、手渡すのだから、慎重になったほうがいい。私にとって10の価値のモノが、2しか価値を感じないひとには渡すべきではないのに
豊かなひとが余っている豊かさを放っている、ことにたいして、つりあおうとしなくてよいけど、あげるしかないことが取り上げられたようにおもうなら、品物を変えましょう。
ブランケットは、こんないいブランケットは世の中にないよね、と自分でおもっている、自分の気持ちを確かめた。
イモムシが来てくれたらいいな、と思って、キャベツを皿にのせて、出かけた。帰ってきたらむしゃむしゃキャベツ食べててくれたらよかったのに。気配はなかった。
もうつながりがなくなっているとおもっていたひとから、れんらくがはいっていて、おちからになってあげられるといいと、こういうときにおもうけど、
ケガの素。にしか、過去に照らすとならない。だいたい、何年も離れていた人に対する勝手な思い込みは、哀しくすれ違うのである。など、踏み留まっているうちに、この話は締め切られました。
わたしが、小学1年生のランドセルを背負ってる風に、1からキャリアを始めるひとみたい。なんとも話と渡り歩けなくて、よわよわしく相手に譲り過ぎる。どんな犠牲もわたしの方で引き受ける。という態度しか出来ない硬直感。20代の時に始めている仕事だから、20代の分際、が身に付いたままなのだ。
あるいはこの領域の仕事が、純真無垢なものだといつまでも、畏れをなしてしまうせいか。
植物園へ行きまして、絶好のお花日和だった。
グラジオラスを水に挿していて、花から、ぽとり、何か落ちた。いもむし。見惚れるほど、精巧にいい緑をしたボディだ。よくぞ苦境に産まれてきたよねと驚いた。どこに?たまごが花に?付いていたか、ナゾ。
次に気が付いたときに、毛糸玉の上を這っている。外に逃がしたほうがいいよな、とか思っているうちに、見失った。
キャベツ。を用意しておけば、部屋のどこかから、またここに来るかな。毛糸。を見たら、一口齧ったらしい。虫の口の幅分の糸が、切れていて、健気さが伝わる。毛糸は、原毛の上等であることが証される。おいしかったか。
飼いたい気持ちが芽生える、けど、上等な生地の服とかを齧られたらたまらない。早く見つけて、庭へ移そう。明日、キャベツを用意して誘き寄せよう。
眼鏡をかけて、掃除を始めたら、気が付き過ぎて、なかなか終わらない。棚や鏡を拭く。床の端の桟も拭いた。
夜の時間に、映画を見始めて、前に観たやつ、2年以内くらいなのに、ほぼ覚えていない。断片の記憶だった。今、観たほうが、自分とピントが合っている。成功する話で、これでもかと試され事がつづいて、それを乗り越えてゆく。どうか神様、もうこれ以上、苦しめないでくれ。と、観ていて思った。いいえ、これこそ、当たっているひと。神様にかわいがられて、ほっておけないひと、だというところが描かれていました。
こんな目に遭っている自分が周りに晒されるのが、恥ずかしい、という出来事が重なってゆくという体験は、身に憶えがある。外見の体裁を、これでもかと壊されることで、扶養されている時期の貧乏。わたしは、他人からの評価を手放してゆけた。相対値に、意味が無い。ということ。を、ふりかかる処遇によって学ぶのだ。
他人軸ではなく、自分軸で生きることをおぼえたのは、というか大胆に実践してるのは、やっと、近年か。
映画では、内面の営みの美しさが、ありありと表情になっていて、どこにいても、人が美しいことを物語った。幸せになる力。という題名でした。