朝、さんじゅっぷん、ゆっくり出来るとよいな、と思ったから、そうした。所用があり、とかなんとか言って。わたし、ここでつとめて3年になるけど、朝、急に用を入れるのは初めてだ。初めてっていうの、凄いね。
おしごとがおわってからのはなし。チーズ買って帰りましたとさ。
朝、さんじゅっぷん、ゆっくり出来るとよいな、と思ったから、そうした。所用があり、とかなんとか言って。わたし、ここでつとめて3年になるけど、朝、急に用を入れるのは初めてだ。初めてっていうの、凄いね。
おしごとがおわってからのはなし。チーズ買って帰りましたとさ。
寒い朝だった。
今日は、小歩危展望台へ行って、かずら橋へも行きたい。地図を見たら9分って出てきたので、行っちゃいましょと思い、お宿の人に話したら、歩くと1時間15分かかる山の上だということでした。車だと早い。
それじゃあ歩いて行ってみましょう、その後、国道32号線を走る路線バスに乗れるとよいな。
里に、ほのかな陽射しがあるの、いいね。
とにかく。国道32号線沿いに、川口駅から小歩危駅の区間に10コくらいバス停留所があるらしく、これをバス会社に電話して聞いてみた。いま、小歩危展望台を見てきた。この近くなら白川口だってこと。鉄橋が見えて、ガードレールが途切れた所が乗り口だとのこと。
停留所を示す看板が何も無い。バス、本当に来るの?にじゅっぷんくらい、指折り数えながら待つ。そしてバスが時刻どおりに現れた。10時54分。
「かずら橋」って書いてあるバス。これだこれだ。わたしは手を挙げて運転手さんに合図をおくるべく、大きくアピールしたとおもう。しかし、なんと、バスは素通りして行った。
???運転手が脇目もふらず、スピードをゆるめるわけでもなく、暴走したまま、突っ切って行ったのだ。その顔付きは、しっかりとわたしの目に焼き付いた。茫然。
直後にバス会社へ再度となる電話をかけて、怒りをまくしたてた。じっとしているわけにはいかない。知らず駆け出していた。小歩危駅発の列車で午後1時台のがある筈。もう観光は中止して帰るしかないのか。ほぼ公共交通機関がない土地での、まさかのバス素通り事件になった。
小歩危駅近づいたあたりで国道を走る車の運転席から顔を出す人。こちらに手で合図くださってる。まさかバス関係者が緊急に駆けつけてくださったか。そうではなくて、台湾人夫妻でレンタカーでの旅の途中、とにかくわたしを乗せて、大歩危駅へ連れて行ってくれることになる。
神さまかとおもった。国道は二車線あり、ずっとガードレールに囲われているのに、何故かうまい具合に路肩があって、わたしは車に乗れた。車内にて会話した。リタイアした金持ちの、台湾人は2週間かけて四国旅行してるらしかった。よゆうある人だから、困っているひとへの目くばせができる。
大歩危からはタクシー。かずら橋へは行きたいのだもの。車内では、先ほどのバス素通りで唖然とした気持ちのままなわたしは、ただただいかりをタクシー運転手さんにぶちまけてたとおもう。辺りが暗い時間だと、ちょいちょい素通りは発生しているらしい。
せっかく周囲の山々が絶品な光を讃えているというのに、文句にかまけている人がなんておろか。窓の外の移りゆく風景を眺めている、のんびりしたドライブが、わたしにとっての観光なのに、地点から地点への素っ気無い移動に金・金って照らしてる。タクシーの運転手さんの世俗感覚と、密になりたくなかったかんじ。
かずら橋へ到着。天気は、陰なかんじ。曇って暗かった。これがわたしのかずら橋になった。観光する時間がいちじかんくらいしかなかったのだっけ、わざわざ東京からこのいちじかんの為に来たのかも、ずっと来たかったのは、しょんべん小僧の像なのだけど、ざんねん。そちらへ辿り着けませんでした。
祖谷蕎麦をいただく。もうバス停へ行かなくちゃ。ここ、束の間だった。
帰りのバスには、乗れました。
徳島に到着して、眉山ってところに登った。アニメの聖地みたい。ロープウェイ頂上にこたつのあるカフェがあり、アニメオタクの人たちがちんまりと座っていらっしゃいました。
山のちょっとした階段で滑って、尻もちをついたのを潮時に下山しました。
徳島でお土産屋さんをたっぷり堪能して、空港へ行き、またもやお土産屋さんにて宝探ししてた。
空港のお兄さんが、徳島を旅行されたんですね、徳島、良かったですか。と尋ねてくださった。今回の体験やいかに。タイミングの神さまに守られましたね。感謝。帰りの飛行機は、国際線の大型になりました。悠々としたお席。
ご旅行は、これにておしまい。
朝のみずみずしさが格別な土地。まるで空気が海そのものだった。まったく観光地になろうとしていない。だだっ広い敷地に、病院が点在していて、休日なので野球するひとがまばらに集まったりして、普通な場所。
朝だけ散歩して、ちゅーでん、という駅から各駅停車の汽車に乗った。券売機がこわれていた。売店で飴を買ったら賞味期限が7か月も前に切れてる。日系3世で英語教師を1年前から始めた男のコに、汽車の乗り方を聞かれる。日本語が判らなすぎるひとだった。ぜんぶ
化けたタヌキのしわざだったのかも。呆けてる。
徳島で1時間待ちして特急に乗る。剣山5号。つい2日前に、まさしくこの特急の話題。廃止するって。
この船乗り場の斜め前にホテルがあって、ちょうど今晩泊まる宿じゃん、と思い、はやばや荷物だけ預けておきましょう、とフロントへ行く。わたしの名前を検索しても出てこないらしくて、はて。あ、このホテルじゃなかった、と自分の旅程表を見て、判明。ずっと前から大歩危へ来たくて、ホテルの名前を何度も閲覧していたので、覚えのある名前になってたってこと。わたしは、おかしくてケラケラと笑ってしまい、ホテルのひとは、パッと引っ込んだ。大歩危ホテルまんなか さん、ゴメン。
わたしが泊まるのは、大歩危サンリバーさんだった。
船に乗れたから満足じゃ。もうお宿へ行って温泉に浸かろっと。そしてまたしても延々と、吉野川沿いを歩いて進みました。
旅をする朝に、公園から富士山を眺めた。雪山。出発がゆるいので、支度をのんびりしていて、羽田空港を最初の観光先みたいにすごすはずだったけど、空港に着くなり、出発ロビーに進む。
家から、まずはバスに乗ったのだけど、随分と時間をかけて渋谷へ行ったってこと。そのバスの車内で、この度の旅を占うように、なにか出来事に風をかんじながらすごす。過去の、執着があったことを記憶から取り出して、なんてしゅくふくにみちた珠玉。みたいにおもえて、涙が出てきた。情がもろいじょうたい。
5時頃がみごろらしいけど5時には辺りが暗くなるしバスは4時45分発だし、どうするか。それでバスに乗る、を選ぶ。
鳴門の海に見惚れて、ひととき行けて良かった。潮が意志をもって泳いでるみたいな海の様子だった。つまり潮の流れが淡路島をぐるりと、右回り左回り、まわってぶつかる。
夜闇の中をバスで進む。渋滞だった。6時15分、徳島駅着。牟岐線に乗り換えて今夜の宿のあるまちへ。地図はどうなっているんだ?事前のじょうほうをほぼ持たないで、駅が灯りも無くて沈んでいた。夕ごはん食いはぐれるかも、とコンビニの惣菜を買った。店はあるの?どこなの?開いてるの?
ホテル横がスーパーで、とても鮮度のいい刺身ののってる丼にありつけた。
ホテルは、ドリンクサービスの時間があり、カボス酒をガブガブ飲みましたの。温泉は金長の湯でしたの。
明日からご旅行なので興奮している。
ヨガを始めた日と重なるけど、シゴト先にケネンな事があり夕方近くまで煮え切らなくて、もうひとつの煮え切らない事を、せっきょくてきに潰しにかかっていた。里にだけせっせと帰る。それ以外ひきこもる。という状態への嫌悪を、ヒステリーまじりに、長文にしてLINEに送りましたとさ。
その日は、ヨガを始めることに上気したため、急に鉾をおさめた。キョリがあるようになったのかも、関係。
わたしはわたしの旅をしてゆくのだ。旅とは自分のことである。今日までの体調管理が万全で、晴れて明日を迎えることができるから、よかった。かしこいね。と自分に言ってる。
ヨガの、セールスし過ぎな運営方針が、耐えられる限度を超えた。ウルサイ。そもそもヨガの精神に反いているとおもう。しずけさを破る、店の人のエゴが露出した。
それを感想に書いたのだけど、直截的に書きすぎている。これに直にものを申されたりしたら、応戦。したりして。肩がりきむ。ちゃんと、からだを伸ばすことを楽しみましょう。
お試しで、ヨガの教室へ行き、そのまま入会するのまき。まんめんのえみ。で語られると、弱いのかも、人って。この日は、この先やってみようとコーフンしてあまり眠れなかった。
電話で話す。いま、自費出版で本を作っているひと。この表紙絵を担当したのだが、その絵が表現なので文字を加えなくてよい。と私は考えるのだが、プロフィールを書かなければいけない、と当の出版者が言っていて
はじめ、捏造したような私のプロフィールを勝手に書いて私に見せてきたのだけど、了承出来かねると申し上げた。酷いストーリー、安い賃金でヘコヘコ服の仕事を請けるひと、みたいに書かれていた。
今回は、色々な布を使ってカラフルなポーチを作っていることを伝えていたのだが、この話はおもしろくないのでのせない。らしい。おもしろさ?
以前ならば怒りが噴き出すような事を冷ややかに聞いていたとおもう。昭和初期に生まれているひとの「活動」と括る事のみを有ることと扱う、この感じを手放せるようになった。と感じた。
この人、と呼んでるひとに、かつてはこちらに関心が無いと、ばっさりと言われたのだけど、その地下脈絡が、ようするに昭和初期生まれならではだと確認したかんじ。何かをする(Do)から良いのではなく、いる、(Be)というだけの境地にいて、それをわたしは楽しめるようになった。ということ。
執着が上空を素通りする、というかんじな受け応えをした。ただ、時間に身を委ねていて、そこに同時に祝福をみいだしている。