急に雨嵐になるような日は、電車に乗らないで過ごそう。
図書館に行き、CDを選ぶ。ヴェルディのレクイエムを、オーケストラを替えて聞き比べよう。それと、たっぷりブラームスの管弦楽曲を聴きたい。
人気の肉まん屋さんへ行き、あれこれ選ぶ。帰宅して、餡饅を熱いうちにいただく。半身浴をする。アイロン掛けをする。レース編みと漢字練習もする。家時間が充実した。
急に雨嵐になるような日は、電車に乗らないで過ごそう。
図書館に行き、CDを選ぶ。ヴェルディのレクイエムを、オーケストラを替えて聞き比べよう。それと、たっぷりブラームスの管弦楽曲を聴きたい。
人気の肉まん屋さんへ行き、あれこれ選ぶ。帰宅して、餡饅を熱いうちにいただく。半身浴をする。アイロン掛けをする。レース編みと漢字練習もする。家時間が充実した。
版画を観に行く。美術館の入り口から人が溢れ返っていた。なんと入場するのに1時間待ち。とりあえず整理券をいただき、このまま今日は帰ってもいいかな。とおもいつつ、ぶらぶら街歩きした。
美術館にだけ直行直帰している街だったから、とても新鮮なお散歩になった。絹織物とか紡績業が盛んなエリアで、メリヤス工場のハギレを売ってるお店。気に入ったので買う。他にも、郷土色がたっぷりな、生活を考えてるって物が並んでいた。
地元の珈琲屋さんへも入った。2階にある、ちょっと広いお店。ボーイさんがプロ。間合いでうっとりとした時間になる、このやりとり、隙間に、ドキドキしている。猶予ばかりがある時期にも、私はこの土地へ何度か来ている。わたしがこの土地に落とした空気の粒子が、今になって揺れているかんじ。
高級食パン屋さんにてもお買い上げした。
版画は、決まりポーズみたいな構図で、名所が次々と見て廻れた。ちょうど先週行った場所の直ぐそばの景色。錦帯橋も宮島も、天橋立も、実物を見たばかり。なことがぜいたくでした。充実してよい日だった。
希望のかなた 映画祭の最後の夜に行かねば。突出した特長が、一人歩きして、モチーフを繋げたように見えた。お決まり、を演者が演ってしまうかんじ。そこまで私のこころは温かくない。監督の作品変遷の中で、わたしとは、過去のない男。で丁度、鳴り合った。
金曜の夜、お化粧をして、ワンピース着てお出かけする事は、楽しい。
旅のふりかえりをします。
ロッカーに預けた荷物は、スポーツバッグで、別に小さめのビニールポーチをパッと蔵ったのだったか、とにかく、宿で手芸をしようとしたら針を入れてるこのポーチを失くしていて、ハッとした。
ロッカーに忘れてるよ、絶対。そして翌日、駅員さんがちゃんと保管しててくださり、戻った。
ポーチを忘れたのは、無意識のうちで、宿で針仕事しないでゆっくりしようってことだった気がする。
帰りの急行電車が満席で、2社を利用する急行には乗りたくない。それで普通に帰った。到着時間が1時間おそいってだけで急行料金4000円を節約した。かしこい。
しごと上の、形骸化された箇所を追求した日。ここの道理がコロセていたならばとっくに、わたしもそのひとも、ここにはいないきがする。そりゃそうかとおもった。ほんの少し、やりとりをしただけで莫大に、きもちが負荷をかんじた。
夕刻の映画を観に行く。アキカウリスマキ、「罪と罰」民族によって受けてきた教育が違っているのだろうし、家庭の内にある道徳の文化も、私の知らない領域があるらしいこと。それで、肝心なキーである箇所のセリフが、一遍見たくらいでは解けていない。
今日のしごと上のこととどこかしら、リンクしてそうだった。大切なひとを失ったのに、加害者が金持って、権力が使えたために揉み消された。目には目を。権力持ったひとを始末する。そうなんだけど、人を恨まずに、変な道理は、まかりとおらせてはいけない。ここを。孤独な青年は、悟るのでした。
ドストエフスキーに挑んだ。
いろんな映画作品に展開してゆくであろう一片が随所にあって、愉しめました。
夕刻に、ベランダそばのガラスのサッシに、カマキリの子どもがいた。部屋側にいた。昨日の強風から守るため、バラの鉢をお部屋に退避させていたから、そこに居たのかな、カマキリ。生まれたてで、ヨタヨタと歩くカマキリ。
サッシをとりあえず開けたら、外側へ移動してた。ガラスを這って、新しい冒険をしている臨場感を、わたしもあじわった。こんなに修羅場みたいな世の中によくぞ生まれてきたよな、カマキリよ、泣けた。
嵐で、家も揺れるほど。朝は、なんとか公園に行ってきた。カッパ着て、歩いた。
生クリームを使ったおやつを作る。プレーンマフィンを焼いた。漢字の書き取りを少しして、レース編みを2段して、
家族のひとが画面見ながら、断末魔みたいな声を出していることと、隣にある狭いアパートの住人がダンベルの機器を部屋に入れていて、苦しそうな雄叫びを、あげてるのは、同等な騒音障害だとおもう。
周りにおかまいなしに、どんな音でも露骨な放ち方をする。ということについて経験する時期なのかも、これを克服するまで繰り返される。いやな音よ途絶えろ。音の主とはケンカする、或いは関わらない。いずれ気にならなくなるといい。
出来事って、否定的な解釈をしていたものが後々の自分に肯定されたりする。物事への意味をふってしまわないほうがいい。みたいな話が、バーバラレイさんの本の後書きにあって、80年代終わりに書かれているのに、時代を感じさせない、彗星のような発言だ。知性がたどり着いた領域のことばであろうか。感心する。
今日は出勤だで。と言い聞かせていた日が来た。今日出勤をする人がもう一人います。息苦しいから、とっとと、定時15分過ぎて退散。
わたしはアイドルにならなかったけど、アイドルの開催する握手会。みたいなのを昨日は味わったってことなのか、モテてるっていうのかしら、すくなくとも
ちっちゃい組織の内側でレッテルを貼られているなにがしか、を、自分に照らさなくていい。ことを確かめた。
今日は、昼は、ピザ。アンチョビでトマト味のやつ。夜の散策は、途方もなく、無目的だった。欲しいものは、今は、なんでしょうね。
握手会。のインパクトと、それを再現するというか、いつ握手を求められても応えられるように歩くって、新しい境地を実践することにした。堂々と。
朝6時から、はなれにある露天風呂に貸切で入る。ずっと川のせせらぎの音が聞こえる。野鳥は、囀っています、チャッチャッ、チャチャチャチャみたいなリズム。
朝ののんびりした空気、そして、本日は龍王峡へ行く。
村営のバス。これは昨日、8人乗りの黄色いワゴン車だったのに、今朝は、回数券も出てくるマシンを積んだ、ちゃんとしたバスだった。これに、ウケてるわたし。
バスを降りる。思う存分に長居すること。
鬼怒川の流れが早い。それは柔らかい岩を砕くほどに強い。2200万年前にできた岩が露出している。地球のマグマが凍った姿、それが手で触れる。緑色で斜めに筋が入っているのとか、道沿いで手が届いた。
大きな岩と岩の間に、川が流れ、岩から滝が川にたたきつけて流れ、岩は白かったり青。紫色だったりする。
渓流沿いの歩道を、ざくざく、中学生が一列になってこちらに進んできた。ずいぶんと大人数で、全校の行事?だったのか。わたしは道の端に除けつつ、進む。そこへ、ふらりと踊り出てくる男子、なんと、わたしに握手を求めた。なんで?
とにかく、がんばってください、と言い合って、握手もして、あいさつしたという訳。わたしのかけ声とバイバイの手振りで、男子の一帯が沸いてる。ヤッターって言ってる。
これ、どういう現象よ?このできごとの後から、わたしにとっての世の中の見え方が、なんだか氷が溶けてゆくように、変化を始めそう。明るい光なひとたちが、この世にいっぱい生まれて来たことを知った、かんじ。