TORABARA かんなづき28日

イモムシが来てくれたらいいな、と思って、キャベツを皿にのせて、出かけた。帰ってきたらむしゃむしゃキャベツ食べててくれたらよかったのに。気配はなかった。

もうつながりがなくなっているとおもっていたひとから、れんらくがはいっていて、おちからになってあげられるといいと、こういうときにおもうけど、

ケガの素。にしか、過去に照らすとならない。だいたい、何年も離れていた人に対する勝手な思い込みは、哀しくすれ違うのである。など、踏み留まっているうちに、この話は締め切られました。

わたしが、小学1年生のランドセルを背負ってる風に、1からキャリアを始めるひとみたい。なんとも話と渡り歩けなくて、よわよわしく相手に譲り過ぎる。どんな犠牲もわたしの方で引き受ける。という態度しか出来ない硬直感。20代の時に始めている仕事だから、20代の分際、が身に付いたままなのだ。

あるいはこの領域の仕事が、純真無垢なものだといつまでも、畏れをなしてしまうせいか。

ダリア。

植物園へ行きまして、絶好のお花日和だった。

TORABARA かんなづき27日

グラジオラスを水に挿していて、花から、ぽとり、何か落ちた。いもむし。見惚れるほど、精巧にいい緑をしたボディだ。よくぞ苦境に産まれてきたよねと驚いた。どこに?たまごが花に?付いていたか、ナゾ。

次に気が付いたときに、毛糸玉の上を這っている。外に逃がしたほうがいいよな、とか思っているうちに、見失った。

キャベツ。を用意しておけば、部屋のどこかから、またここに来るかな。毛糸。を見たら、一口齧ったらしい。虫の口の幅分の糸が、切れていて、健気さが伝わる。毛糸は、原毛の上等であることが証される。おいしかったか。

飼いたい気持ちが芽生える、けど、上等な生地の服とかを齧られたらたまらない。早く見つけて、庭へ移そう。明日、キャベツを用意して誘き寄せよう。

TORABARA かんなづき26日

眼鏡をかけて、掃除を始めたら、気が付き過ぎて、なかなか終わらない。棚や鏡を拭く。床の端の桟も拭いた。

夜の時間に、映画を見始めて、前に観たやつ、2年以内くらいなのに、ほぼ覚えていない。断片の記憶だった。今、観たほうが、自分とピントが合っている。成功する話で、これでもかと試され事がつづいて、それを乗り越えてゆく。どうか神様、もうこれ以上、苦しめないでくれ。と、観ていて思った。いいえ、これこそ、当たっているひと。神様にかわいがられて、ほっておけないひと、だというところが描かれていました。

こんな目に遭っている自分が周りに晒されるのが、恥ずかしい、という出来事が重なってゆくという体験は、身に憶えがある。外見の体裁を、これでもかと壊されることで、扶養されている時期の貧乏。わたしは、他人からの評価を手放してゆけた。相対値に、意味が無い。ということ。を、ふりかかる処遇によって学ぶのだ。

他人軸ではなく、自分軸で生きることをおぼえたのは、というか大胆に実践してるのは、やっと、近年か。

映画では、内面の営みの美しさが、ありありと表情になっていて、どこにいても、人が美しいことを物語った。幸せになる力。という題名でした。

TORABARA かんなづき25日

朝5時に目覚めて、5時40分に開門することをたしかめて、熱い紅茶を水筒に入れて、出発。

6時。

電車は、ちょうど朝日が入ってくる時間だった。

この清清しさ。

私にとって、ああなっては終わり。というひとが、何人もたちあらわれていた頃は、あれらの事象は、なんだったか。わめきつづけるにょばの、あの聞き苦しい声。そのこだまが耳に残りつづけた。にょばの声って、アレルギーを発症できるほども毒。ヒステリーの発露でしかない。その場所を牛耳るための声。媚びる音としての声。

なにが、あなたにとって世間なのか、それを決めているのはあなたです。そして、口に入れる食べ物よりも、耳から入る、外界に気をつけた方がいい。

言葉そのものに、気をつけた方がいい。上質で豊かな語彙があって、知性を含む。テンポ。声色もよい。鮮度があって、楽しく、喜びがある。そのような言葉を選び、耳に入れることが未来の姿。

TORABARA かんなづき24日

昨日お店で試着した登山靴が、わたしのサイズだけネットでSALEになっていて、先ほど入手いたした。

家族のひとが、肉300gたべてた。わたしはサーロインステーキ。生ビール。

家族のひとは、今後の指針になる事業に道筋が出来たので、祝いました。今日まで3年かかった。よき門出になりますように。

TORABARA かんなづき23日

乗るはずの電車から出てきた人たちが、ザザっとエスカレーターを降りて来た頃に、エスカレーターを昇り始めてる。凄く走って駆け上がったひとは、乗れたのかも、先週も、秒単位で、同じ光景だった。

何の心理だろう、朧げにしか参加していないところに向かう日。ちゃんと間に合うほうが目立たないのに。これはなにかを、潜在的ななにかをあらわそうとしているのか。そして曖昧なまま、まあだいたいその時間頃から来てるひとってことだったみたい。

お昼のサンドイッチの味が、私にとって、マンマだった。この、マンマの味の安心感って絶大だ。大地に足を着けた。仁王立ちで着地。

夜は、モール散策。欲しいもののヒントがあった。

この埋め立て地に聳え立っているビルへ、いつか通えるといいと、思っていて、叶っている。なにかを願うとき空を見上げてることが多い。

TORABARA かんなづき22日

行楽日和なのに、都内の近辺を歩くにとどめて、住宅街で迷子になったりしてた日。高級住宅の立ち並ぶ道路で、もしも私がここに住んでいたら。トリップ。似た人と知り合って、その人たちしか、自分にとって世間ではない。という暮らしをしてそう。ここの幼稚園に、自分の子供を入れる。だろうね、お金が稼げない人達への想像力に欠けて、異種と強固な境界線をつくる。承認欲求で問う項目が決まりきって、競り合いも激しいだろう。

え?ぜんぜん、しあわせじゃなさそうな空想。突出した才能に則した事業に勤しみ、こういう館に居を構えてることが、今世体験しないことにした方。いえいえ、この先は、ここに暮らしたりして。長閑なあたりのけはいが、田舎で幼稚園に通っていた頃の、記憶の中ののんびりした風景と重なった。豪邸と、閑散とした田舎は、ゆとりのある豊かさにおいて、似てるのか。興味深い見解。

今日観た美術展の題名が、つまりパクリって意味。ギャラリートークも始まったけど、特に聞かなかった。コンテンツとして、この美術館という空間に並ぶ。学校用美術教材。現代美術、というお題目で、屁理屈みたいな御託をならべてある。解説を読まなければ、成り立たない。ぽっ、と何か知るにはいい機会だった。

理学理論を彫刻にすると。

お洋服のビルに行って、好きなのを選ぶこと。草色に近い、ステキカーデガンを入手いたしました。

TORABARA かんなづき21日

山にいこっかな、が海になった。

岩畳のところ。

お赤飯を炊いていたので、おにぎりにして、海辺でいただきました。

天気最高。

コッキング苑の展望台から。

近所の老人が、溜め込んだうっぷんを吐きたいから、という目的で、海へ行くことになったけど、聞かされる方は、重たいきもちを伝染すんじゃないよ、とにかく、同じく老人になった元友人に、せっかく会いに行ったのに、鬱鬱として、病が深かったらしい。何も食べ物をふるまわれなかったらしい。懐かしそうにするとか会えて嬉しいとかが無し。元友人の苦役でしかない生活を目の当たりにしたことがショックだったらしい。

それを1年くらいも、悪く言ってはいけない、と戒めていたために、苦しくなった。という話でした。

知るか。連絡を取り合っていない過去の知り合いのことは、総じて、異星人にたましい売ってるくらいに括っている。知り合いだった筈のひとの豹変、お隣だった地点から角度がほんの少し違ったまま、遠くまで進んだことによって、まるで別物に変わった姿への戸惑いを、わたしは幾度も経験したのであり、こうあってほしいなどという他人の様子を、かってに捏造してはダメだと知ってる。とにかく、過去が消えることが残酷ではなく、潔いことだとおもうように成っていて、わたしは現在も未来も、明るいのだと思った。