TORABARA かんなづき20日

チェーンスモーカー、ではないけれど、チョコレートの味が口から途切れることがないように、ではないけれど、キャラメル味?のチェーン、とにかく、甘みを、とぎらせないように、甘みは、食べ物である必要はなくて、気持ちが甘めな間は、とくに口にキャラメルを放ることもない気がしている。

シゴトの間中は、まるでシゴトに甘やかさは無いために、チョコ。だったりを用意して、なんとか時間をしのぐ。3時に、チーズケーキプリンを食べよう。今日は、ちゃんとおやつがあって、よかった。

なるべく、自分のしごとのほうもやろうとしている。映画をいっこみて、へとへとする気分の波があったので横になったらそのまま寝た。

Lucia、オペラの。マリアカラスの歌声聞いたから、よかったか。そういうこと。なにか好きなことをすることで充ちるタンクのようなの、少しは潤ったかどおか。

今週もおつかれ様でした。

TORABARA かんなづき19日

おとといの、やることリストは、だいたい出来た。

水栽培するヒヤシンスの、セット。チューリップ球根をプランターに植える。

毛糸編みを、5号棒針で、編み始めた。これは、飾りになる予定です、フリルよ。毛糸を見てるとえいぞうがちらっちらっと、あたまをよぎりますの。それを形にいたしますの。

クラシック音楽をかけて、毛糸編みをするひとときがあって、この時間は、古いわたしも新しいわたしも同じ、わたしの時間の底は、変わらないかんねんのような、無意識にそのまま通じているような、わたしの基本的な気持ちはこれかも、という処にいってる。

パイ生地とか、クッキー生地とか、一定の量を作っておくことを習慣にするのは、お店が始まってからにするか。レシピのカードを、用意しておいて、定番なのは、ぱっと作れると、素敵。

TORABARA かんなづき18日

横に、借景でお庭が見渡せていて、尾長の鳥が、連日ご来訪されています、電柱にも留まっていて鳴いてらした。去年は見かけなかったような。

お姿。

適職について。いくらでもやってあげられる、いとわないで、ひつようとされていることを、みたせる。という領域が、自分にとって相応しいってことにするか。

芸術の領域は、技術的に高まってゆく。ミューズとそのままつながる。美しい形。完成度。100年残る。芯からワクワクすることが、自分にとってなにか。

夜のひととき、フエルトを縫った。針山を作っている。中味は、煎っていないコーヒー豆がいいかも。

TORABARA かんなづき17日

洗濯したり掃除機かけたり、何度も洗い物したりして、やるぞそろそろ、という気構えと、その時、が来て、家事は片づいてゆくのであった。

球根を植えたり、フエルト手芸をしたり、毛糸編みを始める。これは明日からの計画。

山に行ったときの映像を、くり返して見ている。いいでしょ。というのを人に送っている。山のヒントだけを伝えて、山の名前を言い当てられたことが楽しかった。

帰り道のロープウェーが貸切だった!

TORABARA かんなづき16日

今日は、お財布を忘れた。

陸の孤島みたいな所に来ていて、唯一、PASMOの残額だけがたよりで、いのちづなってことか。アワアワしてたとおもう。電子に刻まれた数字が、何かの拍子に消えるかもしれない、と思っている。カードが折れたりして。

ちゃんと、サンドイッチをお昼に食べて、なるべく普通にすごすつもりが、落ち着かなかった。かばんのポケットにしまったPASMOをさわったり、取り出して裏返したりして、形を確かめたりしていた。

金曜日に、忘れ物をしないようにと、ハンカチを早々、カバンに入れた。いつも何かを忘れるから、事前準備だよね。のはずが直前で、お財布を取り出したりして、そのまま、忘れるなんて。

やれやれ、最寄り駅に無事に戻って来た。自分へのご褒美で、グラジオラスを買った。薄紫色で大きな茎。花は、大いに自分をなぐさめた。

きれいな色。

TORABARA かんなづき15日

今日は、聖地巡礼の展覧会へ行く。

富士宮からの富士山

奥村土牛画伯の絵が、しっくりくる。色も大きさも、これしかないよね、という啓示そのもの。見応えがある展覧会は、年間をとおして数えるほどしかない。今回の、山種さんへは必ず行くべき。

先日、山へ行ったので、絵に描かれた栃木県の山の形、三つ、山の名前がわかったことがよろこびだった。

日本画は、生の画面を見てこそだとおもう。画と対峙したときの、画面の手前までが、画の秩序が及んだ空間になっている。絵画観賞は、じつにぜいたくなあじわい。

TORABARA かんなづき14日

思いがけない美術展へ行った。YouTubeの日本発信の動画、第一号の人。情報は、音は、同時に発声したら白になるらしい。ノイズ。いっぽうで、そのひとにとってのコアなことって、10もなかったりして。発信している番組の神回、の括りで、くり返し、この作家の生い立ちに寄り添っていたであろうことが展示されている、とわたしは読んだ。

わたしが半年にわたって助手をつとめた、デザイナーの、ビジュアルが展示(静物のポスター、画面にて動画)されていた。このビジュアルは、世の中の重大な部類、欠かすことのできないテキストなのか、というところを改めて考えてみていた。

八代亜紀さんが女神の扱いなのが、いまはわかるきがした。声や唄を持って生まれたひとなのだな、漁港でライブの映像で、舟唄。を見れたことが、よかった。知ってて、わたしがうたえるって、昭和の電波って、ふしぎな征服力だった。

TVの部屋