鸞鏡らんけい、盤渉ばんしき、神仙しんせん、上無かみむ。一竹十二律の、音の名前。
つつじの垣根の上面にまでめりこんでくる彼岸花が、冥界が、むぎゅーっと顔をのぞかせてきたような不気味さがあって、イタキモチイイ、みたいな気持ちの悪さと美しさの共存だった。
今日は、蝶々がツガイが絡まるように踊ってるのを2回見た。3頭がからまりあって、空のほうへ飛ぶ、というのも見た。蝶にとって、なにかな日だったみたいよ。
鸞鏡らんけい、盤渉ばんしき、神仙しんせん、上無かみむ。一竹十二律の、音の名前。
つつじの垣根の上面にまでめりこんでくる彼岸花が、冥界が、むぎゅーっと顔をのぞかせてきたような不気味さがあって、イタキモチイイ、みたいな気持ちの悪さと美しさの共存だった。
今日は、蝶々がツガイが絡まるように踊ってるのを2回見た。3頭がからまりあって、空のほうへ飛ぶ、というのも見た。蝶にとって、なにかな日だったみたいよ。
下無しもむ、双調そうじょう、鳧鐘ふしょう、黄鐘おうしき。一竹十二律の、音の名前。
水べりをぬうようにはしるバスに乗った日。夜景は、水面に映る灯りは潤んでいて、右に左に、川が見えて、視界を川の遠くへ、ふぁっ、と投げるかんじをたのしんだ。
思い出したけど、夢で、見取り図の、四角い地図、模型みたいに凹凸もある、リアルに川が、夜景の中にあって、たてとよこと、何本も、そしてそれぞれの川に音楽があった。音を、夢の中で私は知っていて、口ずさんでいた。香水?色っぽいいんしょう。この夢は、何年も前に見ていて、同時に、いま、白昼夢である。
昼休憩は羊って付く麺屋さんの人と会話して和んだりした。
壱越いちこつ、断金たんぎん、平調ひょうじょう、勝絶しょうせつ。1オクターブの内に、12、音階がある名前の最初から4つです。
昼のころから、横浜へ行く日。お出かけに、不器用さがただよっているほうが、お出かけは楽しかったりして。
行く場所も時間も決まった事ばかり、すみやかな移動して、やくそくされていることだけする、成果物を取りに行くのかっていう行動。合理的でないことがストレスであるかのように思い込まされてきたか。
ほんとうは逆で、もたつくことと、とっぴなこと、の間で、ひとは休まってゆくのかも。息をふかく。よじげんにすべりこみそうなくらい、なにかひろがる。
これは、やさしいじかん。かもしれないことがみえかけて、帰宅じかんになった。こんどまた、ゆっくり来よう。
とりのいちに、なんども行っている神社さんの、宝物の、てんらんかいをみにいきました。ほうのうされた宝は、万華鏡とか笛。とっておきのいい物の、品目が、なんて素敵な時代だろう。時代が薄く進んでしまったようで憂える。
ネットの中に居る人。の動画の対談を、幾つも観て、今日の内にだいたい飽きて、よかったといえる。今、でてるひとでもてはやされているらしい。対話の言語の多彩さ、切り口の角度と、収束力に、刺激があった。ふうん。特徴を拾って、気が済むというかんじ。
老害に関しての過激な発言が注目を集めてたらしい。老害選手、みたいな会長との対談、ふだんは公に姿をみせない、爺さん。アチャコ。って名前の含む、文化の重さが、わたしが聞いていてひびきわたってきた。西日本の70代を超える人々の細胞にふり注いでいる、この時代の、スターというか愛。を産んだような功労者。これが、理論武装した、言語なぞって、無機質にしかなれない40才。若造。の無表情によって聞き流されてしまった時、
なんかこの40才に冷めた。
知らないひとで、もし言語を操らないじょうたいになったら、こういう画面越しに見えてるひとって、肉の塊という丈だよな。知り合いではないひとの、エンターテイメントではない姿は、イマイチだ。ニュース番組でニュースしゃべってるひとの人相とか、顔ってこんなにきちゃないっけ、何年も前だけど、やたら高性能なテレビ画面で政治家の顔がどアップになったのを観て、いやいやいや、テレビって本当に要らない。と思ったのだっけ。
ネットのシリーズもののドラマを見たわけだけど、わたしは邦画の恋愛ものにケチをつけることの方が得意だとおもう。自分自身におこったことの方をあいするのであって、若かりし頃に恋が成就することは、わたしにはありえなかったことで、ドラマを見ながら、きおくの中の逃避行に出かけていたとおもう。
恋愛のドラマを見ていたことが、なにかしらの伴奏になっていたとはおもうけど。
しゃべるかしゃべらないかわからないほどに、さりげなく、前の席のひとは、わたしがテストでおもうようなてんすうをとらなかったことを、きづかった。それと、廊下の、中庭がわは、ぜんぶ窓で、そのとなりの窓から、風でかききえてるか声かわからないように、となりの窓は少し遠くて、ふたりはまさかしゃべっているかわからないさりげなさで、やはりわたしをきづかった。かもしれないくらいの、はかなさ。
どうにもならなかったから思い出が美しい。
今日は、雨足強く、よく降りますな。
それと、ドラマで見た主人公の俳優さん、昔のバイト先にそっくりな顔のひとがいたな、と思い出してて、やっとわかった。コタニさん。わたしは、俳優という職業に就くことじたいを人としては嫌悪してるというか、生身の市井のひとの方が本物のキラメキがある訳です。それでもし、コタニさんが佐藤健に似てるよって聞いたら跳ね上がるかもしれないが、コタニさんって素が格好いいひとだったりして。元気かな。
逡巡は以上です。
掃除機を掃除した。周期的にやらなくちゃな所なのだが、まだまだいいでしょ、と先送りしがち。それでいて、掃除機掃除し終わったら、なんて清々しく快適。もっとひんぱんに、クリーンな掃除機にしましょ。
掃除機のことは、使いこなせているとおもう。部屋の隅の四角に、キチンと四角いヘッドをあてて、掃除機が吸う威力を発揮して、ほとんど手に力を入れなくて、ただ支えるくらいに掃除機のスティック部分を持って、
スイッ
と、床のところを吸い込むしゅんかんとかとてもいいよね。わたしは、自分の体を弾むようにつかって道具を使いこなす、ことに長けてゆくことを好んでいるとおもう。雑巾やスポンジ。洗剤の量(も種類も)ビンゴなことは、よろこび。そのせいか、四角いかどに丸い自動の機械に動き回られることは多分嫌い。(持ってないけど)。使ったお皿を放るだけで無駄な水流が見えることは多分不快。水を節約する加減を、ちゃんと自分の目と触角で知ってゆきたい。一枚一枚、選び抜いてここに集まった食器を、慈しむように、自分の手で洗いあげているのは、善行を積む。くらいの尊さをかんじる。
洗い上げるたび、生まれたてによみがえる。
わたしは、最初のうどん屋バイトで皿洗いをした。皿洗いは大量にした。上手くね?マリコ。←バイト先での擬名。皿洗いをすることは楽しいという、いい気分が今もつづいているのだ。流しのどこになにを置くかという要領も、ちゃんと身につけている。カトラリー、手前。ガラス物は、流しのプールに沈めない。サッと最初に洗う仕舞うを済ませること。
それが情報なのか実感をともなう知恵なのか。知恵のほうを育てたい。
彼岸の入り。お萩を作り、いただく。
たった1000歩しか歩かなかったこととか、座ってる丈な時間の、午後に眠くなって、その眠さはどこからくるのかをおもいあぐねて、もしや退屈をしているのかもしれないわたし。しかしぐっと、とんでもなく、おそろしいほど、旨いおはぎを作れちゃったことで、
すごいすごい、わたし。
なのであった。
あしたからは、秋にちゃんとなるんですって。
夜になって、指がくたびれるまで、ピアノを弾いた。モーツァルト SONATAケッヘル545番。第三楽章を、くり返し練習いたしましたの。
ベランダで咲いている朝顔の、花びらがあまりに薄く、最大のパフォーマンスで、花を咲かせたってことかも、畑の土をよくしていって究極に土がよくなったとき、日本で一番花びらがウスイ雑草の花が咲くって。はかない花は、咲く場所を選ぶ。