TORABARA ふみつき29日

今日は、お昼に、ベトナム料理をいただく。以前から店の雰囲気がガラッと変わってしまった。ペットOKなのもわたしは苦手。まだ店に獣臭は滲みてなかったけど、時間の問題でけがれてゆくかもよ。期待しないでグリンカレーとフォーを待つ。

出来上がってきた。食器が家庭用みたいなかんたんなボウルだ。前は、お皿おしゃれなオーバル型だったっけ。ここからがいがいなのだけど、一口食べて、ものすごく美味しかった!これほどまでにおいしいお店だったっけ。まんま。且てベトナムでいただいた味が甦るたいけん。

読みたい本を、ちょうど貪り読んでいるところ。この作家さんの、編集能力に惹かれている。情報源として、とても参考になっている。活動屋さんってかんじか、服部みれいさん。

俗なことと合致するタイプ、はドーパミン5のひと。このタイプの人口は多い。なんの疑いもなくニュースを鵜呑みにできて大企業に勤められる。難なく学校生活がおくれて、スポーツ観戦に興じられる。ズレてるひとはドーパミン1だったりして、職人みたいな気質。わたしは?独自の美的観点で世の中を眺めている気がする。

田舎にある霊性について。個のなりたち、アイデンティティの構築のし方が、そもそも都会とは異なる。個を消滅して、ただ茫漠とした共同体の中に、頭を無にしてというか、自己を透明にして、突っ立ってるだけ。そこに居ることだけがしごと。突出した自己の発露は、しない。共同体に溶けこませた自己のありようは、もともとわたしたちはひとつだったという霊性に似せてある。古来からの日本にあったコミュニティの形。

これに、憶えがある。霊性、という表現が用いられたことで合点があった。生きてるひとか霊界のひとか、見紛うカンジ。が田舎のひとにはある。ぼやぼやして、大きな眠りの中にいるひとたち。

こういうコミュニティだと、若者と反りが合わない、のかも。田舎離れがすすむ。

わたしにとって、田舎の要素で苦手なところは、貨幣ではなく物物交換で成り立ってゆく人同士のつながり方。だんだんと個が失われ、顔から表情が消える。たとえば大きな白菜が丸ごと1個家に来たから、しばらくは白菜を食べるしかなくなる。今晩はハンバーグを焼いてみたいのに。ささやかな私慾は削がれる運命(さだめ)。ここに居るのはわたしでなくていい、入れ替われる、と扱われる事は、能面になってゆく仕掛けにおもえる。深海魚から目が退化したみたいに、わたくし、という個の特長が、日に日に、退化しそうにおもえる。

なんも考えなくていいから楽。というひとは田舎をどうぞ。育つ過程で、わたしは共同体に自己を馴染ませる術を持っていた筈、であるにもかかわらず、田舎嫌悪の残滓しかない。ははん、理屈の通らない合理的ではないザマを指して、霊性、といってるのがにくいくらい、上手い。