日曜日。昨日LINEグループになった人たちからおはよう。のレンラク。わたし、知り合いになることとか、付き合い、というのが疎くて、なんか、そわそわしてしまっている。
わたしのペースで過ごすこと。霞ケ浦へ行こう。曇っていて、遊覧船に乗ったけど、筑波山は雲にかくれて見えなかった。
霞ケ浦の、遊覧船乗り場までは、タクシーで向かう。わたしの他に、家族連れ、4人。小さい子、兄と妹がいて、猛烈に妹が泣き続けていた。「絶対に、乗りたくない」と、100回は言ったとおもうよ、それを黙らせるわけではない親に呆気にとられてるまま乗船時間になる。子供の躾が、なんて甘いのだろう、かつてのわたしの家では、わめきつづけるだなんてゆるされないだろ
船に乗るな、降りろ。黙れ。もう帰るぞ。あるいは、殴る。であろう。そもそもどこかへ子供のためのレジャーへ連れて行く、ということは無かったか。
大人ふたりがかりで、泣き喚いている小さい体を横に倒し、担ぎ込むみたいにモーターボートに乗せてた。そこまでして、なんなんだ、引き返すかも、という淡い期待が潰える。小さい兄が、妹の気分を逸らすように宥めていた。パパは、ひと言も言葉を喋らなかった。
わたしは直接は、泣き声に、介入をしなかった。家族の内でだけ姫なのか知らないけど今のうちで、やがて社会は容赦なく、おまえが姫でもなんでもないことを突きつけるのだとおもった。人間という動物の、初期的な、必死な訴えってなんなんだろう、聞き苦しくて不快だとかんじる。毒まみれで生まれてきて、毒を撒き散らし続ける営み。だと観察した。
言語の乏しさが、更なる愚かな動物状態だとおもわせた。これくらい幼い時に、反抗的な時期がある方がマシだとは聞く。例えばわたしのように、大人たちに抑え込まれて育つと、手がつけられないほど屈折する。わかりやすく反発して単純なひとに成長してゆくがいいよ、せいぜいな。わたし、どんだけ気に入らなかったんでしょ、ガキ相手に。
ところで、奇跡的な一枚。船のモーターにびっくりした魚、ボラが跳ねた瞬間を撮りました!

船を下りて、循環バスがあるらしい、あと8分で最寄りの停留所に来るらしい、と、遊覧船事務所に置いてあったチラシで知ったのだけど、この停留所の具体的な場所が、わからなくて、遊覧船の事務の人に聞く。外に出て、一緒に探すも、わからないまま、事務の人は多分ここだと言って、事務所へ帰って行った。そして、間違ってるんじゃないかな、バス停のポールが無いし、おそらく大通りの方ではないか、と目をやると、
循環バスが、ちょうどその大通りに停まり、走って行ってしまうところだった。そこへ行くには信号もわたるし、もう間に合わなかった。なんたる無念。でいて、まあいいか。効率的かどおかを問うことは旅ではないのではないか。地図を見ながら歩いて、目的地の温泉へ、ちゃんと行くことができた。
温泉からの帰り道、またしても、その温泉地から間違ったバス時刻表を渡された。平日と、土日のダイアが書いてあるけど、今日は日曜日なのだけど2年も前から、わたしが乗りたかった路線は、土曜だけ運行。日曜日は、廃止になっている。バス停まで行って、バス停の貼り紙で知る。なんというか、この朧さは、つまりバスに乗ろうとすることが珍しいから、情報は精査されないまま。




牛久へ行き、1時間だけ滞在した。行けて良かった。夢見な気分がある土地。お土産を買って、重要文化財のビデオ見た。地下室の、真っ暗な空間のままになってるところを歩かせてもらってることに、なにか、ここの土地のふくよかな感性をかんじた。
