ピアノのお稽古をしているひとときが、わたしにとって大切だった。ピアノは、習い事として通わせてもらっていたのだが、姉に奪われた。
実家に金銭の余裕がなかった。姉は上京して私立短大に通い始めた。これは姉の将来に直結する、家をあげての事業になるから、家のお金は自分に回せ。と姉が母に詰め寄り、わたしからピアノの習い事が取り上げられた。
「月謝」がダイレクトに狙われたことについて。ひとの生涯の、恒久的な豊かな流れ、を暴力的に、姉の私欲に傅かせる(男を替えて享楽に興じていたかと存じます)この即物的な俗物、二十歳そこそこの姉の脳でしかない事物の配置を、何故に愚かな母は言いなりになるしかなかったやら。将来の職業に関係ないから習い事が無駄だ、やらせててもしょーがない。という横柄な口が、居間から聞こえた事を思い出した。結果、姉の将来がお金を得て家に還元出来たなどの事実はなかった。すきあらばせびりとる。という姉を警戒しつづけて今に至る。
現在、姉が小金稼いでいるバイトが、姉の通った短大のろせんの職種とおもわれるけど、そこ止まり。という現実を二十歳の彼女が識っていたら、私だけが輝く約束になっているような振る舞いは、出来ただろうか。おとしまえはつけろや。彼女が、そこ止まりな事と、わたしのピアノの犠牲は、一元的な気がする。ひとの芽を摘むようなまねへの報い、といえるのだったりして。
わたくしがわたくし自身への崇高な時間を持って、ピアノに向きあうことに、力の行使、介入があったことは許されない。
ちゃんと、自分の好きなことをやっていられる、わたくしの生活態度は、時代を超えて(もう30年も昔の話してる)、なんて尊かったか。という話。