朝、ヨガへ。始まりの時間ギリギリでスタジオに入った。来る時、道に迷って、この時間になる。
自然にまかせる という過ごし心地 ままよ、でこうなった。
帰宅してから、明治神宮さんへ行く。お茶やさんがいらっしゃってたので、当選のお礼を言えた。あら、それ一等じゃない?と言われて、飛び跳ねるほど嬉しい気持ちになった。聞けて良かったわ、とお茶屋さんがおっしゃってた。心根がよいひとの、咄嗟のひとことに、いやされる。とても。

中央線に乗るのは久しぶり。路線によって乗ってるひとの顔つきに特徴があるような気がする。中央線顔ってあるよな、というのを、車内に見つけてた。美術館へ行って、わたしにはいい絵に見えない展示を、早歩きで廻る。隣駅
へ向かう筈が、逆方向の電車に乗ってた。かつて通った駅で、めったに来なくなった、みちがえるほど新しくなってる、そしてここにわたしは、未消化な念をいっぱい落としたままな気もする。ホームに立って電車を待つ時に、いたたまれないようなここち、が多かった場所。その磁場のような気配が、同じ場所に、そのままの空気の粒子が今もあって、おどろいた。装飾が変わっても、ここはここのままだ。そして
懐かしいかんじ、と思った。しばしの、哀愁が漂った。
さてと。吉祥寺へ。お茶屋さん、どこに入ろうかな、と徘徊してレトロな喫茶店にする。プリンアラモードを注文した。
不毛の禿げ山、だという通い心地があった土地、只の真っ直ぐなアスファルトを、人工的に敷いて、取ってつけたような商店が、ダサい品物を並べていた。粗い、空気感。浮ついた、頭の軽そうな、ノリだけの反応を繰り返す、言語活動。反射的に、なんでも済ませる。深みとか拘りが、抱え(hold)られないから、浅瀬にだけいる生き物。親の金を握り、買ったばかりのものをしょっちゅう着ている。しかし独自なセンスは、ゼロ。みんなと同じような、が合言葉なのか、群れないと生きられない、種。弱さ。脆さ。
わたしの過去に見ていた光景、そこで逃げ場がなくなっている、八方塞がりな状況は、今おもいかえしても、厄そのものだ。そこは離れなさい、という信号を、ちゃんと感じる練習だったのか。
今は、どうだろう、意に介さないひと、はゴマンといて、わたしは、真空状態のような箱に入っているまま、やりすごしている。結界を引いて、こちらに入りようが無い、という策。
周りには、自分を鏡で見るようなかんきょうが、用意される説。煮え切らないようなあれこれが勃発して、並行して、過去を振り返るなかにヒントを探したいのかも。今今の環境の、生簀かなさも、じっくりコトバにしてゆく。じぶんじしんの執念と、取り組む。