いいお天気。美術館へゆく じゅんび じゅんび。
3時からの講演会を聴いた。口達者で老年に突入する女が登壇。こっちが美術学芸員で、もうひとりの女が話すひと。トーク始めるけど華が無い。インテリってだけを振り翳した気分悪くなる女。2年半前に出産したらしいけど60才近くに見えた。
一緒に行った近所の老人が、「民コロ」と言って履いてた靴を投げかけてた。気分害してたらしい。嫌悪感は、どこから生じただろうか、おまえがかしこいことは判った。メキシコに心服したならメキシコの民族衣装の一張羅を纏ってそこへ上がれって。実際が伴わない、口先の理屈。しょぼい毛糸のチョッキを着て、運動靴を履いてる。でいて、自分が映ったスライドの写真、真ん中にいるのが私でーす、って言ってる。誇示、なんなの。
美術館に入社したての新人が震災に遭って、被災地に「一時的なユートピア」が出来たことを経験した。社会学者が本で、土地が被災することで住民の間にユートピアが出現し、それが消えなかった例が、メキシコにある。と述べたことを足がかりに、メキシコの街に潜入してたらしい。ここのところはよく分かっていない。メキシコの実情を観察してアーカイブ?を残すことが飯の種になると嗅いだから行ったの?
古い社会主義、と呼ぶのか思想の傾き、みんなで壁に絵を描いてみんな団結しましょう、というところを取り上げて紹介しましたとさ。それを現在の日本の美術教育に落とし込みたいのですって。ご自身の放浪に大義名分つけちゃって、いいご身分ですこと。横文字のアートウンチャラって肩書きなんなの。
確かに、北川民次が生きたメキシコの街、土着の文化であるとか国の向きを、伺い知っていく際の手がかりにはなりそう。展覧会にて一連の作品が一同に集められて、わたしが感じたのは、
北川民次の絵の、圧倒的な美しさだ。
絵が美しい。北川民次がたとえどんな社会的な疾しさ憤りを抱えていようとも、北川民次の絵の世界は、なにもかもが圧倒的な美しさに昇華している。このこと。絵というのは、腕のある芸術家が宇宙からおろしてくる神聖な領域であるようにおもった。