クリスマスイブ。家の人が、近所のスーパーでクリスマス特別お惣菜を買ってくれた。ロゼワインなのに白くね?というひと瓶を開けた。
酔っ払ってきて、口から、家のひとに率直なホンネを話し始めた。もう、この家を出たらいいんじゃないの?家の人は、画面に執心していて、学習及び実践で、お金を稼げるようになるかを丸4年くらい取り組んだ。
もし実力がある人ならば自分の器量が週二万円稼ぐことだということならば、そこで止めるとおもう。勝ちだしたとき、いきなり年間目標の数値を持ち出して、まだ足りないとのめり込み、結果もともと勝ってた二万円も失った。
キューブリックの映画で、雪山に籠った主人公と同じ症状になっていると観察する。「わたしは小説が書けない」と連打しつづける。
わたしが気に入らないのは、ふたりで過ごしましょうではなく、のこのこ、自分の母親の元に泊まる、そのため休日の自由な時間は、わたしと過ごすことには充てられない。このこともだけれど、
その画面を見ていて、おおきな溜息をあけすけに狭い部屋の中で吐かれる。背中合わせでお食事をしていると、どうしても、わたくしの消化に悪くひびくとおもわれる。
以前、食事の支度がままならないからと、居酒屋で食事をした場面があったけど目の前で家の人は体ごと横向きで画面を憂鬱そうに見入っていて、やはり、非常に消化に悪い影響があったとおもう。
わたしのことを好きだという男と、向かい合ってお店の席でお食事をする場面が、かつてあったけどその男は、わたしをじっと見たまま、なんて綺麗なの、どうしたらそんなに美しくなれるの。と声をかけつづけていた。
およそ、その形容詞が検討違いじゃね?とわたしは内でおもいながらも、食べ物をいただくシーンとしては、わたしのからだは特上な消化をするのではないか。楽しいわね、可笑しいわね、が体に良い。という経験。
とにかく。家の人、と言ってるひとが、いつのまにか家の外の人。になりそう。そうとおくない未来だという気がする。