ノルマ。を自分に課して、引き出しの掃除を必ずしなければ。まあ、ちょっと読書のつづきをしたり、だらっと先延ばしにしたため、けっきょくうたた寝して2、3時間?なんか、夕方なんですけど。って日だった。
ワインは、一週間かけて上等な一本をいただくのに、このごろ2日で1瓶空くんですけど。荒れてる。
預言カフェに行ったことの、しょうげきが、その印象が、時間を経て、変化している。今残っているのは、歳とった人に対する、羊そのもののような盲目さに対する、慈しみ。心や頭でわからなくてもそこにいてくれましたね、現役のままで進ませます。中途半端だの挫折だの、という単語もあった。わたしがすでにその言葉付きを脱していて、なにかわざわざダメな言葉付きで形容をされる事は、希まない。
こんなにめぐまれている。と常々、わたしはじっかんしている。この奇跡なかんじ。に沿うというより、相対的に、あんましうまくいっていない、未だ花も実も無いじょうたい。と言われた辺りにひっかかりをおぼえる。また、空っぽになる?それをよろこんで、希望が注がれるのを待ってて。いままでを超えた、達成がある。だそうです。
わたしの急いた、なにか詰めこんで、アクセクしなければ。というのは、変な思い込みなのか。なんにもできないひと。まるきしわたしに備わるギフトについてふれてくれていない。「気が強いからそれを証すできごとが起こる」それで
わたし(主)が、あなた(わたし)のところまでいって、保護、補う、ガイドをしっかりとします。らしい。そばにつきっきりになるしかないほどのあやうさ、その、わたし。らしいって事。
他の娘、息子が、どのような預言を聞いてらっしゃるか、ネットの検索の中に出てきているけど、わたしがいただいた内容には、なにか苦労多い所が滲んでいる。
なにかと似てる。もう若くないのに、結婚の写真を撮っていただく場面で、なんか商売相手の年令層でなく、経済的なターゲットでもなさそうな気の毒な気持ちをわたしに向けられながら、シワだらけな厭な写真が出来上がったかんじ。わたしは、こんなはずはない。わたしの内にある青写真との乖離。
わたくしじしんがわたくしへの酔い心地をつくりだせるなら、介さなくていい場所はあるのかな、カフェのことも、他をよそ見してしまって、他のひとへのコトバが妬みの的になったりした。