五感のうち、客観的でありうる触覚、視覚、聴覚は、高次元であるとされ、主観的でしかない自分の味覚嗅覚は、下位の感覚らしい。嗜好品とは、下位の感覚が分担しているところらしい。高次とは人間を開花させ、低次とは享受してるって丈らしい。カント、実用的見地における人間学より。
こういう分類がピンとこないけど、例えばロシア文学をよんでいて、やたら高潔そうな人物の言い回しの土台って、獣から人間を分つ、カント辺りの学識がはいっていたりするのかも。
またしてもカントによる考察で、快についての対象は、美しさ、崇高さ、快適さ、善さ、の4つらしい。美しさは、存在に対する関心がほったんでありながら、個人の感情によって美しいというのは趣味判断になるらしく、でいて普遍的に美しいという概念があるから「美しい」とひとは言うのであって、この奇妙な経験が根底にあるために、美しさが与える快は、高次である。らしい。かなり難解。高次元かどおかに結びつけるところに、飛躍があるって、わたしはおもった。
快適さとは、目的も関心も、「無い」ことで成り立つ。快適を求めて、なんらかの目的を達成するのに役立つ、という魂胆を設定したうえでなにかをすることは、低次の欲求能力を発揮しているにすぎなくなってしまう。
なんらかの目的に従属させられたとたん、嗜好品は享受の快ではなくなり、目的、に汚染されて、病の領域になってしまう。依存性のひとが、嗜好品を貪ってしまえば、もうそれを嗜好品とは呼ばない。依存先の囚われは、追い立てられていられればよいなにがしか(逆流した物言いだけど)であって、酩酊するためにお酒を飲むばあいの酩酊、は目的であって、嗜好ではない。
そもそも、人間の生が端から端まで「目的」に占領されてしまえば、もうそこに快感を享受するための時間や場面は確保されない。依存性、というじょうたいは、享受の快感を剥奪された生にほかならない。(後編、おわり)