お誕生日のプレゼントを、かなり前倒しで、家の人が買ってくれた。アウターが増えてて、もうこれ以上、アウターは要らないね、と言って家を出発したのに、
アウターを2着、新調してくれた。
親戚の話。集金の頭数に入れられてるけど、その親戚のコの顔も知らない。会ったことないってこと。歳も知らない。暇な田舎のひとたちは、しがらみを捏ね回すことで、まきおこる刺激を養分にして、生きてるのかも。
母の出自が400年続いてる家なのだけど、家の庭には樹齢400年近い、椎の木があったりするけど、現在および先代の家主と、わたしは折り合いが悪く、その門をなんじゅうねんも、くぐっていない。
それを闘いのように、わたしは内にかかえてきたのかも。対峙する的が、400年の伝統、くらい大袈裟にとらえてきた。得体の知れない、その古い家の流儀から、どうやらわたしは否定されているみたい。といういごこちは、なまやさしいものではなかった。
それにしても、できることならば付き合わせないで終いにして下さい。子供の頃に、その家の歪は見抜いたとおもう。
その家で年に何回か、大勢の人が集まる機会があり、人の手を借りる、という状況があり、小学生のわたしは借り出された。その場に、たしか中学に上がってる歳の、かなちゃんという親戚も手伝いに来ていたとおもうけど、かなちゃんのことは家の人たちから嫌われていて、大人たちが、早く返せ、顔見たくない、みたいな会話をあけすけにしていて、本当に間もなくして、タクシーに乗せられたのか、親に引き取りに来させたのか、帰らされてしまった。怖。
小学生のわたしは、かなり凍りついた。嫌われるかどおか、そこに公平な基準などが存在しない。美醜、への好みに尽きる。くらい、わけのわからない判断をくだされる。かなちゃんに類するふうにってことと思われるけど、ゆくゆく、のちのち、二度と呼ばれなくなるぶんざいにわたしがなった。
そういう場所があるということ。説明はつかない。そして、器をはかられた末、顔も合わせないまま、集金出来る頭数に入れられて、その家のむすこさんが何か成される祝いで、わたしから集金することになったレンラクが、(私の親から)昨日の16時に入る。むすこさんの顔も知らない。むすこさんが存在するってことは伝え聞いていたけど、歳も名前も覚えていないし、という状況。
可愛がられる場合は、何度も家に上げて、都度、お金を包まれ、相談に乗り、ひつようならばおふだまで用意して渡す、らしい実態を近年知った。容赦ない差異は、闇をうむよね、
そういういなかにあるはなし。