先週とは打って変わって、きょうは、沈むような気持ちをなんとかする。という会議。わたしに、ギャンブルを喜ぶ質が、今まではなかった筈だが、数日前の、高揚感たるや、沸騰して火傷したようなケイケン。こういうのも積んで、自己規律を取り戻してゆきましょう。

近代美術館の、常設展を見る。混んでいた。
上野に移動したのも束の間で、早いバスでスカイツリーへ行く路線の、浅草で降車。遊園地の声は、反対側に反響するのね、ほぼ同じ音量が轟く。浅草寺さんの、本堂天井画を見上げてからお賽銭箱に、語呂で「イイ」を納めた。福を授かります。
海老天と蕎麦。笹の川の熱燗。お腹空いていて、もの凄く美味しかった。空腹こそが、秘訣。そしてコーヒー屋さん、いつものドリンクと、チーズケーキ2種類をオーダーした。惰性な流れ、おんなじ店のハシゴは、今日は、避けたかったと言ったのだが、年寄りに付き合うとこうなる。子供の頃は毎週、祖父がデパートへ私を連れて行き、食堂でソフトクリームを買ってくれた。これを、なんという退屈さだろう、付き合わされるのはウンザリ。と、子供のわたしは感じていた。時間が経つと、祖父の、連れて行ってあげよう、という気持ちに泣ける。
近所老人は、同じくらい老人で、現在わたしは毎度同じ店にしか行かない町歩きを、再現しているのかも。
ところで。カントは、現実と超現実、二元世界についてを、考えていたらしい。今のわたしは、その二元世界がわかる気がする。カントが、信仰心として述べたくだりは、なにも宗教であるひつようがなく、ことばでいいあらわすことができないきゅうきょく。わたしたちは知能指数100とか、110とか120それと五感をつかって、この世を認識しているのだけれど、知能指数1万とか1兆とか。1000も億も感覚があるとか、そういう存在からの世の認識は、違ってくる。空間や時間という枠組みがはずれたじょうたいのにんしきというか。
わたしは、面と向かった現実の俗に、馴染めないことを、この日記を通して考えている。馴染もうとする方向ではないけれども。そして、即物的な快楽だとか損得で、目先の取捨選択という反射反応を繰り返すひとへの嫌悪を、何度も書いている。ふつふつとしたいかりがありつつ、
けれどもわたしは、真善美そのものとつながったそんざいであることを、たいげんしてゆく。ほほえむとか、ここの大地に立ち、天と一体になるかんかく。
このことを、すでにカントは書いた。プラトンは書いた。らしい。似たようなぎもんがわく。それで友を見つけるみたいに読書をするのだ。
つづく