コブラに咬まれて、これが毒になるってことは、咬まれた「人」のほうに、これを毒だとする器があるってことらしい。コブラの毒が毒ではない、虫や動物はいるらしい。
同じことが人間関係にもあって、嫌いとおもうやつは、こちらにそれを嫌いだとする器があるってことらしい。なんか、ここは、解せない。
理屈だけでできたおじさんがいて、神さまの領域に手を出し始めた。神さまのことが、理屈によってわからないから、という判断の根拠で、あるお作法を、消滅させてしまった。その頃会社で、「無駄な作業を省く」ことが推奨されていて、どの動作を省いたか、項目を、エクセルシートに書き出すことになった。この数が多ければ、良い。
神さまにまつわるところのお作法は、この「省くべき無駄な動作」でしかなく、おじさんにとってはエクセルの1行が埋められることを見つけた!でしかなく、神さまのことはわからないから、書いていいとおもった、であり、エクセルの行を埋めれば埋めるほど会社にとっての「良いこと」とされる。ひいてはおじさんの点数がかせげる。というあたまだったらしいです。
神さまは、どうしてわたしにこの状況を与えてくださったか、ここにいくつもある問題、すなわち「不自然さ」が、わたしに気付ける。気付いたのだからあらわしなさい。
会社というのは組織であり、指令系統があり、ここに従うことを、仕事への従事と言っている。わたしの言い出し方によっては、私は、ここの指令に「反している」とだけされてしまう。また、おじさんがごじぶんにきている指令を、妨害された、と言いかねない。わたしはここで、何を伝えたらいいか。長い時間、おじさんに質問をつづけた。そして、質問で止めた。
私が、ひとさまになにか、言って聞かせる立場にはない。しかしこの場面は、「わたしが弱い立場である」ことを確かめる場面ではない。答を押し付けることであってはならない。それで、質問、というかたちをとりつづける。
いま、ひとびとのあたまがどうなっているか。どういう構造があるか。そのおじさんのようなマインドコントロール直下にだけいる状態は、わたしからの眺めだと、マヒとしか呼べない。でもね、このじょうきょうは、いったいどう扱ったらよいか。
会社が、生かされていることを忘れ、我欲になってゆく、いよいよ我欲になってゆくすがただったか。あの会社は衰退してゆくだろうな。という予感の通りで、かつては帝国だったところなのに、沈んだ。人造人間ばかりを会社に入れてしまったのだ。おじさんよ、よく聞けよ、おまえがプラスチックなんだぞ。
わたしは、じぶんの力が及ばず、無念だった。生の榊が、プラスチックに取替えられた。
こんなことがあって、他にもこういうようなことがあって、わたしは、アレルギーだらけになって、この会社を去った。わたしの役割は、きっと生の榊を保つことだった。それで、この会社の神さまに、側に寄せていただいていたのに、わたしが役に立たないから、おまえ、もういいよってことか。あるいは、わたしは、ビー玉の目を指さして、ビー玉だろ、と問えたから、もうお役目を果たしたのかな。
自らのおこないで、こころを実現しているしかない。
自らのおこないで、こころを実現しているしかない。