短大で英文科をでたひとが随分、ご自身の出身大学に誇りをもっていたみたいだったけど、道端で外人にしゃべりかけられたとき、ひと言も英語がしゃべれてなくて、わたしはとても、驚いた。わたしが英語をしゃべった。
レジを打つバイトをした時に、外人が来て、レジの接客バイトの人は、何も英語がしゃべれなかった。英文科を出て、ふだんは埼玉県で主婦してる人。このときもわたしが英語をしゃべった。
学校って、英文科って?なにを教えるところだったの?
英語が武器で、就職を決めた人が、英語試験のコツを聞いてもないのに教えてきて、設問の、このタイプの時は、a)が統計的に正解する場合が多い。とかなんとか。なんじゃそれ。テクニックとしてのTOEIC。人が点数を取るマシンになってる。
学校があぶない。こんな空疎な解答マシンが量産されているのか。学力がついてゆくことに意義があるはずが、学力を問う問題だけがひとり歩きをしている。安直に点数を取ることに焦点がある。点数が上か下か。試験するの、やめちゃえよ。アホは点数しかなぞれない。
一般的な、学問といわれている学科に、わたしがほとんど理解がない。たまに、わたしは、どの学科にすすめばよかったか、興味あればこれから学びたいのは、と自問するけど、学問を受容れるきりょうがじゅうぶんでないようにかんじる。論文。って長ったらしい、何行も何書いてるかわかりにくくしてあるやつ、とうすうす伝えきいている、はおそらく無意味だとおもっている。
専門の学問領域が現在ないこと。これを後ろめたくおもったほうがいいかどおか。毎日、新しい好奇心に向かって、なにかしら活字を読んでいるけど、これと学校だの学問だのをむすびつけるつもりもない。日々の学びのかたちと学問は別ものなのだ、きっと。
憧れに届かないままだった学校、芸術領域の話。ここに通ったことの断片を宝のように今もおもう。今も、売店や文化祭へ行ったりする。この学校で特有の視点を授かることができた。夢に酔ったままの包まれた心地がある。泉のように、常に未来が生まれる場所。わたしにとって、大事な場所。やめたのに、いつまでも、好きってこともある。