神道の本をずっと読んでいるけど、我で引っぱろうとすると、天からのごかごがなくなってしまう、と書かれている。
わたしが、肌でかんじてきたことがあって、むしろ自分を全体的に使ってすごせているか、わたしは問うてきた。これが自力とか我、と呼ばれてしまうか。他人行儀でいるしかない場所や人というのは、わたしにとっては、「ダメ。」なことの合図なのだ。
教則本のような、道徳の体系があって、自分のエネルギーと合う合わない、がある。この本は、昭和2年生まれの方が著者で、昭和2年の道徳観が、古いってはなしかもしれない。
たとえば、田舎には田舎の流儀がある。ここと合わないことを嗅ぎ分けて、自分のエネルギーを生かせるところに、進む、というのが、自己の責任だと、わたしは考える。これって、我で突き進むと呼ばれてしまうか。
自分と向き合うと、自分のからだの声が聞こえるようになる。今、どんなものが食べたいか。というのも、自分のからだが知っている。これが、ままならない事態。田舎だと、たとえば白菜を一束いただいたりして、ハンバーグが食べたくても、白菜を消化するしかなくなる。このように、いつも流れてくる物があって、この流れに呑まれているしかない。
だんだん、自分がのっぺらぼうになってくる。ここにいるのは、わたしではなくていい、匿名な、だれかの出来事。「我」の不在。え?これをよしとするの?ごかごをいただいている姿?
自分には自分の光があって、これを自分でかがやかせていられるようにすごすと、ごかごなのか、まもられているあんしんかん、をかんじます。わたしのイメージだけど、ご先祖さまは、ぜったいてきに、わたしがわたしを生かすことが、お好きだとおもう。これはだれかれが、だれかれを生かすってこと。
「自分で判断しなくてもいい」という状況が、楽だ、とおもうひとも多いと思うけど、これは思考が停止しているってことだ。深海に棲む魚は目が退化しているらしいけど、なにかが退化する予感がある。じっさいに、わたしのからだの水の循環が、たとえば田舎で過ごすと、とどこおる。じかんとともに調子が悪くなるのです。自分のアンテナを他(外)にあずけては、だめ。
それで、他力なものか。といいたい。他力でいいわけがないでしょう。ということ。