しごと上の、形骸化された箇所を追求した日。ここの道理がコロセていたならばとっくに、わたしもそのひとも、ここにはいないきがする。そりゃそうかとおもった。ほんの少し、やりとりをしただけで莫大に、きもちが負荷をかんじた。
夕刻の映画を観に行く。アキカウリスマキ、「罪と罰」民族によって受けてきた教育が違っているのだろうし、家庭の内にある道徳の文化も、私の知らない領域があるらしいこと。それで、肝心なキーである箇所のセリフが、一遍見たくらいでは解けていない。
今日のしごと上のこととどこかしら、リンクしてそうだった。大切なひとを失ったのに、加害者が金持って、権力が使えたために揉み消された。目には目を。権力持ったひとを始末する。そうなんだけど、人を恨まずに、変な道理は、まかりとおらせてはいけない。ここを。孤独な青年は、悟るのでした。
ドストエフスキーに挑んだ。
いろんな映画作品に展開してゆくであろう一片が随所にあって、愉しめました。