またしても、10年ぶりくらいの美術館へ行った。茶道具などが展示されていて、千利休が作った、竹の花器とか茶托とか、その分量と傾きが、宇宙的にしっくりくるかんじね。と思いました。千利休へのおもいこみを投影していて、そう思ってるとおもうだけかもしれない。
なにか、割れるような事象、を目にして、参道で長年育っていた巨木が、根の幹から割れて倒れていて、あんましそれを誰も気にしてないみたいだったけど、倒れた事がしぜんなことだったんだろおか。われるというながれ、がわたしにとってニュース。
戒名の事を、ずっと考えている。昨日とは、ま逆なことを想っている。仏の国での名前は、この世で生きた特長を入れて組みあわせて命名をするらしい。
遠い会ったこともない親戚。この世で、人とのご縁がうすいまま(生涯独身)、兄の商売の上がりを食い淵にして、早々に呆けて老人施設に入って、今年仏になった。わたしが伝聞で知ってる丈の、その知らない人の生は、おぼろげでしかないわけで、今世での自分を葬ってもらえる仲を誰ともむすべていなかったところが、可哀想で泣けた。黄泉の国へはなじみやすかったりして。
もうひとり、遠い親戚で、聞いて知ってる丈の知らない人。変な亡くなりかたをした。わたしは、そのひとに手向けて、般若心経を墨で一文字一文字書いて、寺に奉納したのであり、わたしが二時間(写経するのにかかる)をかけて成仏を祈願する以上の、尽くし方は、他にないと思われた。とはいえ、気休めでしかなく、100年200年、成仏などできっこない。自らの業を自らつくってしまう罪は、仏の力が及ばない。
戒名ってン万円。ようするに坊主の儲けだろ?と思った。
般若心経の中に、なんども「無」という文字がでてくる。わたしが、仏さんに無名なことを可哀想がっているけれど、無名、というおさまりどころ。が在るんじゃないかな。
戒名が無いままなおふたかた、ふたりは兄弟。には、血の繋がった親るいは姉だけがご存命で、戒名をつける手配をしないままらしい。この姉の非を責めるかといえば、そうでもないけど、お亡くなりになっているふたりの幽霊が取り憑くとすると、この姉。の他には無いって感じ。
これ以上、この話が近寄ってきてみろ、塩撒いてやるぞ。いいはなしでは無かった。