昨日植えた、ヒヤシンスの様子を見に行っておどろく。掘り返されているではないか!
水栽培をしていて、花は咲き終わっている。根が茂り、葉ばかりが伸びるため、土の方へ植えた矢先だった。大量の根がひっくり返るほどに掘られたとは。人間にはこの臭覚は無いだろ、獣か。猫?ハシビロコウが来た?カラス?謎だ。
ヒヤシンスは、場所を変えて植えなおした。明日、また様子を見よう。
気持ちがジタバタしていて、出かけた。美術館を二つ回る。大正時代に、装飾的屏風を描いた画家さん。円山派とか先代の絵師のノウハウを継いでいる。技術的な集約が完成したことによって、なにか一面しかない工芸師としての成就があった。鋭利なまなざし、高い技術を備えた、けれども、人間味が見えてこない感じ。
無量寺は、長沢蘆雪が逗留して、寺の本堂に襖を立てかけて、襖絵を製作したらしい。ここに来ていた。という気配のようなリアル。襖絵を描く、切なる気持ちのようなのを感じられたとおもう。わたしの心は、こちらに置く。
もう一つの美術館、春らしい展示は、お金持ちと画家、について考えさせられる。パトロンありきで美術家が機会を得る。美術家としての成長は、機会ありきで促される。ここに、お金持ちは、自ら、加筆している。絵は、土台にされる、この力関係、にピリッと気分が刺激された。まあ、自宅にお遊びを飾る分には害はなくて、拙書もごあいきょうか。
せっかくいい絵が集められている美術館で、宗教のお布施だかなんだかの金で集めた美術品、にいつまでも嫌悪感が伴い、行けていない。美術を見ていて、その某美術館から出展されているのを見た途端、蝶々が口から出す透明な液体にでも覆われたような、へんなツバが付いたかんじを否めない。
審美眼に長けた、美術に対して偏執狂みたいな人のコレクションは、とても面白い。美術品に対する崇めたきもちがあることがとても大事だということ。