スーパーに我慢ならないおばさんがいて、セルフレジの番人をしていて、こちらのレジ操作が少しでもとどこおると、いきなり、口で説明するのではなく、手がのびてきて、画面に触られる。今日は、クレジットカードの読み込みが始まらなかった、これはディスプレイ見れば、再度カードを差し込むように。と表示されているのだから、別に慌てて駆けつけていらないのだけど、そのおばはん、いきなり、わたしのクレジットカードを素手で掴んで引っこ抜きやがった。
こちらも驚いて、きゃっなんですか、と瞬間的に、ばばあの手を振り払ったしだいです。
だいたい、レジのところにその人がいるだけで、肩が力むほど、落ち着かない。果物に値札が付いていなかった時、果物売場の台に、値札が落ちていたらしく、店の人がキチンと貼ってなかったんだろこれ、こちらに落ち度があってシールを剥がしたみたいに、わざわざ、お客さまがシールを落とされた。と言ってきた事もあった。
塩を撒きたいほど。ナメクジみたいに溶けろや。
若い頃の方がヒステリックさは活発だった。あんなに誰彼のことを憎まなきゃよかった。しかし、そのにくしみを取り出してみると、やはり許せない。わたしが成長して大人になったというのではなく、嫌いな人や嫌なことに、ただ蓋をしているというだけで、にくしみは膿んだまま、生々しいまま発酵している。なにかの刺激で呼び覚まされて、これこそがわたしにとっての、亡霊だといえる。
そのひとの存在を受け付けない場合って、視界に入ってきたときのモニター画面のセンサーが点滅するかんじ。菌。みたいに、温度ではじきたくなる。わたしにとって有害なことを、察知する。
しかし、嫌いを観察する、というテーマも、わたしは持っている気がする。以前、谷川俊太郎の展覧会があったときに、氏曰く、嫌いについてとことん考えることが好き。というのを読んで、わたしも!と勢いついている。